縮小する農業機械市場で売上を9倍に
「業界初」を生み続け、世界へ広げた2代目の軌跡
興味のあるトピックが一つでもあれば、この記事がお役に立てるかもしれません。
- パイロットになる夢を断念し、新卒で家業に入社
- 農業を支えるため農機具を製造し、販路拡大を図る
- 農家と向き合う現場主義で、業界初の製品を次々と開発
- 全社員が納得できる柱として、社是と経営理念を策定
- フランスの高級ワイン産地をはじめ、世界中で活躍
- 有機農業の普及をサポートして、人々の健康に貢献したい
1948年、戦後まもなく農機具メーカーとして創業した株式会社オーレック。日本の農業機械市場が縮小の一途をたどる中、1988年に同社の2代目社長に就任した今村健二さんは、「全国、そして世界へ販路を広げる」という目標を掲げ、売上を38年で9倍に伸ばしました。「世の中に必要とされる製品を創る」という信念のもと、業界初の製品を次々と生み出し、今では草刈機で国内トップシェアを誇るとともに、フランスの高級ワイン産地をはじめ世界中で製品が使われています。
極限状態の営業時代に訪れた転機とは、そして「明るい未来創りに貢献する」という理念に込めた思いとは。売上を「貢献高」と称する今村さんを訪ね、これまでの道のりと思いについてじっくり伺いました。
(聞き手:企業理念ラボ代表 古谷繁明)
パイロットになる夢を断念し、新卒で家業に入社
―今村さんは2代目の社長ですね。子どもの頃から家業を継ぐつもりでしたか?
いえ、違うんですよ。戦後まもない1948年に父が創業し、家の隣にある小さな工場で私は子どもの頃から遊んでいました。それで機械が好きになったものの、将来は別の道を考えていました。パイロットになりたくて、高校時代に航空自衛隊航空学生試験を受けたところ、非常に高い倍率を突破して合格。しかし、より高い年齢まで長く飛行機に乗れる民間航空会社のパイロットを目指すことにしました。

―その後、どのような進路を歩まれましたか?
東京の私立大学の工学部機械科に進学し、グライダー部で飛行の技術を磨きました。しかし、いざ就職する時期になると、第一次オイルショックの影響で民間航空会社ではパイロット訓練生の採用が0人になってしまって…。どうすることもできず夢を断念し、福岡に戻って父の会社に入りました。
父から後を継ぐように言われたことがなく、「好きなことをやれ」と応援してくれていました。でも、祖父には「お前が後継ぎだ」と言われていて、実は「健二」という名前にも「健やかな二代目に」という祖父の思いが込められていました。そういう運命なのかもしれないと感じました。
農業を支えるため農機具を製造し、販路拡大を図る
―御社の創業からの歴史を教えてください。
当社は1948年、戦争から帰ってきた私の父が三潴郡城島町(現・久留米市)で創業しました。食料不足の時代に農業を支えるため、田畑に水を引くポンプなどの農機具を製作したのが始まりです。

その後、草刈機の開発に取り組むようになりました。全国の果樹園ではかつて除草剤が主に使われていましたが、それによって土壌環境が悪化し、果樹の生育不良などの問題が起きていました。そこで、除草剤に代わる方法として、あえて草を生やしながら管理する「草生栽培」を国が推奨するようになり、草刈機が求められるようになったのです。
―今村さんが入社された当時の状況はいかがでしたか?
社員50人、売上8億円ほどで、全国に地元の農業機械メーカーがあるので競争が激しい状況でした。私は入社当時、技術者として設計をさせてもらえると思っていたら、人手不足のため営業担当に。しかも、当社はここ福岡県にしか拠点がなく、営業エリアは北部九州のみ。私は北部九州だけで一生を終えるのが嫌で、「全国、そして世界に販路を広げる」ことを目標に掲げました。そのために「他にはなく必要とされる製品を開発する」ことも目指しました。

―どうやって販路を拡大されたのですか?
東京で大学時代を過ごしたので、関東の地理はだいたい分かっていました。そこで、福岡からトラックに製品を積んで行って関東一円を新規営業開拓して回ったのですが、どこに行っても門前払いで…。すでに全国にライバルメーカーが多くあったので、九州の無名の会社は相手にされませんよね。2年間トラックで通い続けても成果が出なくて、思い切って埼玉県熊谷市に営業所を構えました。結婚したばかりの妻が事務、私が営業という体制で始め、ローラー作戦で本格的に営業活動に注力しました。
農家と向き合う現場主義で、業界初の製品を次々と開発
―転機があったのでしょうか?
ありました。新型の草刈機を開発中なので試しに関東で売ってみてと父に言われたのですが、販売後には不具合が多過ぎてすぐ壊れるので対応に追われ、体調を崩して精神的にも追い詰められてしまいました。しかし、極限状態までくると頭がフル回転してひらめきが降りてきて、私が新たに設計し直した製品を作ってもらいました。その試作品を持って山梨へ行くと、地元の有力農家のところで実演することに。すると、刈り取りスピードが速く小回りが利いて、かつ、しっかり刈れることに「これはすごい」ととても驚かれました。その方が最初の試作機を購入され、その後まわりの農家の方々に自慢してまわってくれたそうで、どんどん注文が入り始めて状況が一変。

関東に移って3年目に売上が急増し、大宮市(現・埼玉県さいたま市)に新たな関東営業所として3階建ての自社ビルを建て、次の所長にバトンタッチして福岡に帰ってきました。その後、岡山や名古屋、仙台、長野に営業所を次々に開設していきました。
―その草刈機が大ヒットしたのですね。
従来型でありながら、性能が突出していたことが特徴となって売れたんです。その後、私が福岡に戻ってからは、業界初となる製品を次々と開発しました。例えば、あぜの上と横を同時に刈れる草刈機、作業機を簡単に交換して多目的に使える製品、ゴーカートのように乗って操作できる乗用草刈機など。特に乗用型の草刈機は、それまで重労働だった草刈を楽しい作業に変えるもので、多くの農家に喜ばれました。

―農業機械の業界は縮小しているのではないでしょうか。
その通りです。日本の農業機械市場は、1980年後半をピークに今では半減しています。しかし、当社は私が社長になった当時26億円だった売上が、この38年で9倍になりました。というのも、他社が従来製品のモデルチェンジや同業者の類似品などを作る中、当社は業界初の新しいマーケットを創造してきたことが成長の原動力になっています。
もうひとつ、現場主義・顧客志向も当社の強みです。この近隣には梨や柿やぶどうなどの果樹農家さんが多くおられ、昔から交流があります。社長になっても農家さんを訪ねて話を聞き、製品のテストをさせてもらい、お客さんの要望を製品に取り入れてきたので喜ばれて、交流の輪が広がりました。その会を、30年以上前に「ORECアドバイザーの会」と名付け、いい関係が続いているおかげで、業界初の製品を生み出すことができるのです。
全社員が納得できる柱として、社是と経営理念を策定
―御社の理念について教えてください。
父の代に息づいていた創業の精神は「世の中に役立つものを、誰よりも先に創る」です。それから父の入院を機に私が急遽36歳で社長になり、しばらくは各地を飛び回って余裕がありませんでした。社長就任から10年以上経ち、改めて理念が必要だと感じ、考えに考えて「明るい未来創りに貢献する」を社是としました。自分の都合や売上だけのために仕事をすると、行きづまるときがくる。例えば、草刈機は何のためにあるのか。除草剤のかわりになり、安全安心な農作物づくりに貢献するためです。実際に当社の業界初製品が普及していった結果、除草剤の使用は減っています。生えた草を刈って土に返すことで土壌環境が良くなり、木が元気に育つ。それは明るい未来につながりますよね。

―理念が必要と思われたのはどうしてですか?
全社員に共通する理念を掲げ、みんなが納得した上で「私はこれをする」「自分はこうする」と思考し行動できるようになってほしいと思ったからです。理念を浸透させるため、携帯できるサイズのクレドカードを作り、毎朝それを見て唱和するようにしています。本当は「明るい未来」の前に「新しい価値づくりで」と入れたかったのですが、長いと社員が覚えづらく毎朝唱和するのも大変なので、シンプルにしました。
―こちらに経営理念も書かれていますね。
基本方針を表す「社是」とともに、経営姿勢を表す「経営理念」も作りました。

「若く正しい精神で 継続と革新を図り 感動創造を喜ぶ」です。「若く正しい精神」は、謙虚さやチャレンジ精神をいつまでも忘れない若さで、私は73歳ですが、まだどちらもあるつもりです。正しい精神は会社を続けるために重要なことで、私たちは「売上」のことを「貢献高」と呼んでいます。「継続と革新を図り」は、創業者精神である「世の中に役立つものを、誰よりも先に創る」ことを継続する一方で、IT化やDXなど革新すべきこともたくさんあります。

「感動創造を喜ぶ」は、仕事は感動を生むものだと私自身が度々実感してきました。業界初の製品を開発し、お客さんのところを回ると大変喜ばれました。中でも、乗用型の草刈機が多く使われている東北の果樹農家を訪れたときのことが印象に残っています。「この草刈機のおかげで、子どもが喜んで手伝ってくれるようになった。よくぞ作ってくれた、親孝行の機械だ」と涙を浮かべて喜ばれて、私もジーンときました。そのとき、私はパイロットにはなれませんでしたが、家業を継いで良かったと心から思いました。
フランスの高級ワイン産地をはじめ、世界中で活躍
―草刈民代さんが草刈機に乗っているCMが印象的です。御社の製品はフランスにも広まっているのですね。
当社は歩行型・乗用型草刈機で国内シェアトップになり、当社の売上の2割弱は海外という状況です。世界中に広まっていて、フランスにも30年ほど前から入り、シャンパーニュ、ボルドーの5大シャトー、ブルゴーニュなどで使われています。

―福岡市ではカフェも運営されていますね。
食と農をテーマにした「green lab(グリーンラボ)」というブランド発信拠点を展開しています。2019年に福岡市の赤坂にオープンした「OREC green lab 福岡」は、カフェとショールーム、ライブラリーを備え、イベントやワークショップも開催。立地が良く、当社の知名度アップにも寄与しています。今、green labは長野と弘前にあり、仙台と彦根にも作っているところです。一般的に、農業機械メーカーがお付き合いするのは農機販売店だけですが、私たちはその向こうの農家さんや農産物の消費者と接点を持ちたいと思っています。10年前のリブランディングでも「草と共に生きる」をブランドコンセプトに掲げて、広くPRしてきました。
有機農業の普及をサポートして、人々の健康に貢献したい
―次期社長の候補は決まっていますか?
2年後には長男に社長をバトンタッチすると公言しています。私にとっては、父が後を継げと言わなかったことが良かったので、自分の長男にも好きなことをやっていいと話し、後を継いでほしいと言ったことはありません。しかし、私の父は継いでほしいと思ってはいたようです。みんな孫には言うのでしょうか(笑)。結局、長男は大学4年生になると「うちに戻って入社してもいいか」と聞いてきて、新卒で入社しました。私の父は40年間社長を務めて私に交代したので、私も40年務めて、再来年に息子に交代するつもりです。
―今、チャレンジされていることを教えてください。
数年前から有機農業を普及するための活動に力を入れています。日本では有機農家がまだ0.5%しかなくて、流通や機械化など多くの課題があります。そこで、有機農業を研究し実証している方と提携して、有機農業をサポートできる製品を開発中です。有機農作物が増えれば、人々の健康に貢献することができ、明るい未来に貢献できます。開発には時間も手間もお金もかかりますが、使命感を持って取り組んでいきます。

「企業理念ラボ」には、
企業理念の言語化や浸透策の
事例が豊富にございます。
ご関心のある方は
お気軽にお問い合わせください。
株式会社オーレック
今村 健二さん
1952年、福岡県三潴郡(現・久留米市)生まれ。76年に明治大学を卒業後、大橋農機株式会社(現オーレック)へ入社。88年に2代目社長に就任し、社名をオーレックに変更した。
会社情報
- 社名
- 株式会社オーレック
- 代表者
- 代表取締役社長 今村 健二さん
- 本社所在地
- 福岡県八女郡広川町日吉548-22
- 従業員数
- 355名
- 創業
- 1948年
- 事業内容
- 農業機械の開発・製造・販売
- 会社サイト
- https://www.orec.co.jp/