INTERVIEW

ビジョンを屋号に込め江戸時代に創業
ローカルに徹し7代目で世界一に輝く

興味のあるトピックが一つでもあれば、この記事がお役に立てるかもしれません。

  • 本業を弟に譲り、思いを込めた屋号で日本酒造りに没頭
  • “國酒”と認められた日本酒の奥深き文化を継承していく
  • 変え続けてもなお残る伝統に導かれ、世界一の酒に輝く
  • 娘に伴走して引き継ぎ、自らはウイスキー造りに挑戦
  • 蔵元みんなで高め合い、一丸となって世界へ、後世へ

1820年、福岡県八女市で創業した株式会社喜多屋。「酒を通して多くの喜びを伝えたい」という創業者の熱い志を代々大切に受け継ぎ、1999年からは7代目の木下宏太郎さんが社長を務めています。2013年には、IWC(インターナショナル・ワイン・チャレンジ)で「大吟醸 極醸 喜多屋」が世界一チャンピオン・サケを受賞するという快挙を達成。また、2022年にはIWSCで焼酎蔵ナンバー1となるプロデューサートロフィを受賞するなど、国内外で高く評価されています。創業206年という長い歴史を振り返り、木下さんは「不易と流行は相反しない、伝統と革新も相反しない」と断言します。その真意を見出したエピソードから酒造りにかける思い、日本酒業界の実情まで、熱く語っていただきました。

(聞き手:企業理念ラボ代表 古谷繁明)

本業を弟に譲り、思いを込めた屋号で日本酒造りに没頭

―御社は創業から206年という長い年月を紡がれてきました。沿革を教えてください。

 

私たちのような日本酒製造業では、創業100年は短いほうで、400年を超える会社もあります。木下家の祖先はもともと「米屋」と「油屋」という屋号で、100年以上にわたり米と油を扱う商売をしていました。油屋ではセカンドビジネスとして酒造業をしていたのですが、長男の木下斉吉は米屋と油屋の本業を次男に譲り、本家として自らは酒造業に専念すると決意。1820年、屋号を「喜多屋」と定め、本格的に日本酒造りを始めました。喜多屋という名前には「酒を通して多くの喜びを分かち合いたい」という熱い思いが込められています。

 

 

―日本酒の蔵は長く続くところが多いのでしょうか?

 

いえ、歴史を振り返ると大変厳しい状況です。喜多屋が創業した幕末の頃は、全国に2万4,000を超える日本酒の蔵がありました。しかし、明治維新で半減し、第二次世界大戦後は更に3分の1に。平成元年には約2,200で、現在稼働しているのは1,200ほどではないでしょうか。喜多屋の創業から約200年ですが、その間に残っているのは僅か5%。ということは、現存する蔵には、それぞれに受け継いできた良さがあるはずです。

 

では、うちの蔵の良さは何か。それは間違いなく「喜多屋」と社名をつけたことにあると私は考えています。今でこそビジョナリー経営と言われますが、いつの時代も世界のどこでも、本気でやる人たちにはビジョンがあったはずです。お客様と喜びや感動を分かち合う酒造りをすると社名に込めたことに高い価値があり、その気持ちを大切にしてきたからこそ今があると捉えています。

 

 

―社名に思いを込め、200年にわたり実践されてきたのですね。

 

初代の斉吉は杜氏を雇って酒造りを始めましたが、思いを叶えるレベルの酒ができず、自ら杜氏をすることに。そして「主人自ら酒造るべし」という言葉を家憲にしました。斉吉から数えると私は7代目で、娘の理紗子に引き継ぐ過程にありまして、この家憲は現在まで踏襲されています。

“國酒”と認められた日本酒の奥深き文化を継承していく

―酒造りには歴史があり、奥の深い仕事だと感じます。

 

その通りです。「酒の博士」として有名な坂口謹一郎先生が1957年に出版された著書『日本の酒』に、これまで数え切れないくらい引用されてきた名文があります。少し長いですが、読み上げます。

 

「世界の歴史をみても、古い文明は必ずうるわしい酒を持つ。すぐれた文化のみが、人間の感覚を洗練し、美化し、豊富にすることができるからである。それゆえ、すぐれた酒を持つ国民は進んだ文化の持主であるといっていい。一人びとりの個人の場合でも、或る酒を十分に鑑賞できるということは、めいめいの教養の深さを示していると同時に、それはまた人生の大きな楽しみの一つでもある。「食らえどもその味わいを知らず」という中国の古い諺がある。未熟ものに対する戒めの言葉であるというが、「その味わいを知る」ことのむつかしさは、わが日本の酒の場合、全く文字通りの意味で受け取らざるをえない。世阿弥や、利休や、芭蕉や、光悦の生まれた国民の間に、昔からは育まれてきた日本酒ゆえ、それを完全に鑑賞するには、よほどの深い教養が必要なことはいうまでもないのである」。

 

 

いかがですか。鑑賞するだけでもこれほど奥深き世界ですから、造ることはいかに難しく、一生掛けてやるべきことか。私たちは単にプロダクトを造っているのではなく、文化の継承者です。それぞれに受け継いできたものがあり、更に100年200年と継なげていきたいと思っています。私は社長である前に、醸造家であり文化の継承者でなければならないと思って生きてきました。

 

―覚悟を持って酒造りに臨まれてきたのですね。

 

日本酒は國酒なのです。1980年、大平正芳首相が國酒と位置づけ、歴代総理は在任中に「國酒」と書く慣例が始まり、書は日本酒造組合中央会に保管されています。

 

 

フランス人にとって、フランス料理とワインとシャンパンは誇りだと思います。中国にも様々な中華料理と紹興酒や白酒・茅台酒がある。高度化した民族は、必ず素晴らしい食文化と素晴らしい酒を持っているんですよ。ですから、私たちには責任がある。生き延びることは過酷であっても、やらなければいけないのです。

 

―続けていく上での障壁は何ですか?

 

実は、WHO(世界保健機関)が手ごわい障壁です。マウスの細胞実験などを根拠に、全ての飲酒は少量でも安全とは言えないと主張しているからです。一方、中国では2000年ほど前から「酒は百薬の長」とされており、斎藤茂吉の息子で医学博士の斎藤茂太先生も「適度なお酒は血液循環を良くし、新陳代謝を盛んにする。また心の抑制がとれるので、精神的なストレスの解消にもなり、コミュニケーションの手段にもなる」と言われています。厚生労働省のホームページでも、Jカーブ効果として、全然お酒を飲まない人よりも適量飲酒の人のほうが死亡率が低いと示されています。

 

世界中で「ソバキューリアス」という、アルコールを飲まない生き方がかっこいいと思う人たちが増えています。しかし、人類はお祝いから辛いときまで、様々なシーンでお酒と付き合ってきました。適量飲酒がメンタルヘルス分野に好影響を与えていることが今後の研究で明らかにされていけば、WHOの見解もやがて好転するでしょう。ですから、私たちは誇りを持って酒造りに勤しもうと社員に伝えています。

変え続けてもなお残る伝統に導かれ、世界一の酒に輝く

―木下さんが7代目として後を継がれて、2013年にはIWCで世界一のチャンピオン・サケに輝きました。どのような道のりだったのか聞かせてください。

 

私は中学生の頃に先ほどの坂口先生の文章を知り、坂口先生がかつていらっしゃったところで学びたくて東京大学の農学部に進学しました。卒業後は宝酒造に5年間勤めた後、喜多屋に入り、国税庁醸造試験所に出向。日本酒発酵の研究者である岩野君夫先生のもとにつくと、先生は日本酒の味の理想を「残らず寂しからず」と表現されていました。それを私なりに解釈すると、お酒としての調和と同時に料理との調和のことをおっしゃっていて、日本各地から来ている研究生にとって、それぞれの残らず寂しからずの酒があっていいのだろうと考えました。

 

私は福岡の食を受け止め引き立てる酒として、酒質目標を「口中で優雅に大きく丸くふくらみ、後味の余韻が綺麗で軽やか」と言語化しました。端的に言えば「芳醇さと透明感を両立させた酒」、澄んでいるのに芳醇、リッチテイストで香りも華やかで膨らむが透明感のある酒を造ろうと決めて、喜多屋に戻ってきました。

 

 

―その目標を実現されましたか?

 

実は2013年、ロンドンで開催されたIWCで世界一チャンピオン・サケに輝いた「大吟醸 極醸 喜多屋」は、私が初めて岩野先生に胸を張って「この酒は残らず寂しからずでしょう」と言える酒でした。そして、IWCのアワードディナーに招待されて、その前日に当時の審査員長SAM HARROP MWとロンドンの日本大使公邸で言葉を交わしたとき、彼は「あなたの酒をこう表現したいけど、造り手として正しいか」と聞いてきました。それは「An exotic, modern style with superb intensity and purity」。つまり、エキゾチックでモダン、それでいて見事な芳醇さと透明感を秘めた酒。私が20年近くかけて紡いできたことを、彼は酒を飲んだだけで表現してくれたのです。もう震えましたよ。

 

 

―まさに目指していた味で世界トップと認められたのですね。

 

更なるエピソードがあります。うちの蔵には5代目である祖父の書「芳醇爽快」を掲げています。昭和43年、祖父から父に蔵が引き継がれた年に2人で話し合った酒質目標だと聞いています。

 

 

日本酒は、昔は国が決めた特級・一級・二級の級別分類だったのですが、1992年に造り方によって純米酒、大吟醸酒などと分類するようになりました。そのタイミングで戻ってきた私は、酒を変える必要がありました。私は福岡の食と向き合い、岩野先生の「残らず寂しからず」を自分なりの言葉に落とし込んだ「芳醇さと透明感を両立させた酒」を造ってきました。これはまさに、祖父と父が掲げた「芳醇爽快」と重なるものだったのです。当時の私は、その言葉を意識していなかったのに。

 

―蔵で受け継がれていたものと、木下さんが自らの経験から生み出した目標が重なっていたのは運命的です。

 

喜多屋は、マーケットインのように市場で売れているものを模倣して造るようなことはしません。究極のプロダクトアウトで、福岡で生まれ育ち、今も福岡で生きている私たちの好きな酒を造っています。今後もしばらく世界のアルコール消費は減りかねないけれど、一流のものは残り得る。私たちはローカリズムに徹し、福岡の食文化に向き合って頂点を極める。他の地域でも、その地の食文化に向き合って頂点を極めれば、それぞれの価値が生まれます。喜多屋はそういう酒としてIWCのチャンピオンになり、1,500ほどの酒蔵の頂点に立ちました。

 

「不易」と「流行」は相反しない。「伝統」と「革新」も相反しない。流行にさらされて、より良かれと変えようとして努力し、それでも変わらなかったものだけが不易になると私は考えています。それぞれ先代の素晴らしい作品があり、それを超えようともがき苦しんで努力する。革新の波にさらされ続け、振り返ると残ったものがその会社の伝統になる。変えてはいけないものはなく、私は全てを変えようと努力してきました。でも、結果として、やっぱり変わってないものがちゃんとあることに気がついたのです。

娘に伴走して引き継ぎ、自らはウイスキー造りに挑戦

―今はお嬢さんに引き継ぐ過程にあると、先ほどおっしゃっていました。

 

娘の木下理紗子は今、育休中で春に復帰します。彼女は九州大学農学部で学び、大学院へ進学すると同時に喜多屋の社員になり、九大と酒類総合研究所と喜多屋で共同研究を始めました。そして、酵母開発のスピードと効率を大幅に上げる技術特許を確立。その過程でKR01からKR04と名付けた4つのオリジナル酵母を作り、喜多屋の酒はその酵母に移管しているところです。

チャンピオンを取ったときと今は同じではなく、何度もバージョンアップを重ねています。みんながレベルを上げていくので、同じものを造っているだけでは「昔ほどおいしくない」と言われかねない。留まっていたら後退とみなされるため、絶えず進化していかなければいけません。

 

―どのように引き継いでいるのでしょうか?

 

酒蔵の総責任者はブランドディレクターのような存在で、その役割はもうすぐ娘に移管します。ただ、彼女は子育てがあるので、社長はしばらく私が続けるつもりです。

私は西尾という杜氏と二人で喜多屋の酒質を決めてきました。西尾は数年前に杜氏を山崎に譲り、今は山崎と理紗子がメインでやっています。でも、二人に伝えたいことはまだまだいっぱいあるので、今は4人が並走している状態で、これがなかなか楽しいです。

 

 

―海外にも輸出されていますね。

 

日本の人口は減っていくけれど、福岡の食文化という土壌の上に咲いた花として、福岡の米と水で酒を造り磨き続け、世界中で売っていきたい。チャンピオンをとった2013年にはうちの日本酒の売上の5.7%が海外でしたが、今は15%になりました。これからも海外の比率が上がっていくでしょう。奇をてらう必要はなく、堂々とこれまでの道を歩めばいい。喜多屋とつけた創業者の思いにふさわしく、文化の担い手として、お客様と喜びを分かち合う酒を造り続けていきます。

 

―ローカルを極めると世界に繋がっていたのですね。

 

ローカルを極めた先にインターナショナルがあるのです。最初からインターナショナルな商品があるわけじゃない。フランスでもボルドーなのかブルゴーニュなのか分からない産地特性が不明瞭なワインなんて、評価されないでしょう。ローカルを極めていけば、世界のドアが開くんですよ。

 

―理紗子さんに引き継がれたら、木下さんはどうされるのですか?

 

私は今63歳で、60歳からウイスキーの製造を始めました。これまで培った技術を生かし、まずは小さく始めて、利益が出てきたら再投資をするつもりです。私は生涯、醸造家でありたいと思っています。

蔵元みんなで高め合い、一丸となって世界へ、後世へ

―2025年、福岡県の日本酒は、地域の特産品を保護する国の「酒類の地理的表示(GI)」に指定されました。木下さんはGI福岡管理委員会のメンバーで、福岡県の日本酒の特徴を「馥郁(ふくいく)たる香りを持ち、旨味に富み余韻がきれいな酒」と定義して、ブランド化を進めています。言語化に高い意識をお持ちだと感じます。

 

共有するためには、正しく言語化することが重要です。直接語れなくても、文章を読むだけで伝わるようにするために。ましてGIはブランドとしてひとり歩きをしていくので、最初の言葉はよほどの意識で決めなければいけません。

 

―私も企業理念を作って根付かせる支援をしているので、言語化の大切さを日々実感しています。

 

モエ ヘネシー ルイ・ヴィトンのような巨大企業ならマーケティングが桁違いにパワフルですが、経営規模が小さい私たち日本酒の蔵元はタッグを組んで、国内はもとより世界に出て行かなければなりません。そのためにGIは有効で、蔵元は結束し、國酒である日本酒の文化を継承していくという意識を共有しています。今も残っている蔵はみんな良いものを持っていますから、同業者が来ても全部見せて、学び合い高め合おうとしています。今、日本酒の業界は、とても仲がいいんですよ。

 

「企業理念ラボ」には、

企業理念の言語化や浸透策の
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株式会社喜多屋 

木下 宏太郎さん

1962年八女市生まれ。東京大学農学部を卒業後、宝酒造を経て、92年喜多屋に入社。国税庁醸造試験所に研究員として2年3か月在籍。99年喜多屋の代表取締役社長に就任。2023年黄綬褒章受賞。

会社情報

社名
株式会社喜多屋
代表者
代表取締役社長 木下 宏太郎さん
本社所在地
福岡県八女市本町374番地
従業員数
53名
創業
1820年
会社サイト
https://www.kitaya.co.jp
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