先祖の「海賊魂」をたずさえて航海を続ける、
4代目社長の理念経営
興味のあるトピックが一つでもあれば、この記事がお役に立てるかもしれません。
- 創業112年、祖父も父も個性派揃いで多角化を続けた会社
- カリスマ的な先代からのバトンタッチで「難破」の危機に
- 同世代を「人事担当役員」にしてスタートした理念策定
- 16個のバリューは多すぎる?それでも全社員で守り続ける
- 本社を移転し街全体を活性化…「変な会社」だから人が集まる
- 50年先も「航路を決して見失わない会社」でい続ける
有名・無名と問わず、日本中の「すんごい100年企業」を発掘していく「企業理念Times」の連載。生き残る理由を「企業理念」の観点から丁寧に紐解いていきます。今回は、鹿児島県にある明治45年(1912年)創業の小平株式会社。
初代から先代の3代目まで、それぞれまったく別事業を立ち上げて多角化し成長を遂げた地域商社。強烈なリーダーシップと類まれなる行動推進力で事業を拡大した3代目から引き継いだ会社を、先代とは違った手法で成長に導くその手法を4代目代表取締役社長・小平勘太さんに聞きました。(聞き手:企業理念ラボ代表 古谷繁明)
創業112年、祖父も父も個性派揃いで多角化を続けた会社
ーー最初に創業からの沿革を教えていただけますか?
初代にあたる曽祖父が生まれ育った鹿児島県いちき串木野市には鉱山があり、そこで鍬やつるはしのメンテナンスを取りまとめる鍛冶屋として1912年に創業しました。2代目の祖父が鉱山関係者を顧客とするLPガス事業を始め、3代目の父が、2代目の一部の会社を引き継ぎつつ、IT事業や貿易事業に多角化、自分に4代目として引き継がれたというのがざっくりした沿革です。
ーー3代目にあたるお父様の代で、御社の中核部分にあたる商社の礎を築かれたとのことですが、3代目における事業の多角化について教えてください。
当時、小平のメイン事業は太陽LPガス事業でした。2代目の祖父とケンカし、卸売りを行っていた会社から事業を4人でスピンアウトさせたのが3代目の父です。その後、1980年代に東京で別会社としてIT会社を立ち上げITソフトウェアの開発を始めたり、90年代後半には貿易事業を買収したり、突然中国で農業生産と加工を始めたりと、多角化を押し進めました。父は小平において実質的な創業者として位置づけられています。つい先日も会ってきましたが、まだかなり元気で、いまだにバイタリティ溢れる人です。
息子である自分からすると、近くにいるとわがままでマイペースこの上ない人という感じですね(笑)。ですが、ひっぱる力とスピード感がある人なので、今でも尊敬しています。
ーー3代目のお父様に関して、印象に残っていることはありますか?
事業継承がとてもスムーズに進んだことでしょうか。父は50歳くらいからセミリタイヤのような形をとり、全権限を私に委譲すると言ってくれました。株式に関して最後までしがみつく先代は結構いると思うのですが、父はあっさり全部渡してくれました。
もちろん委譲後も意見は言ってくるのですが、自分は一歩引いて、4代目の自分が自由に大きな変革をするのを受け入れてくれたところに、彼のスマートさを感じました。この切り替えはなかなかできることではないので、自分も5代目に承継する時は見習いたいと思っています。
父がよく言っているのは、「新しいことを始めるのは40代まで、50代以降は調整役」。私は28歳で小平に戻って副社長となり、3年後には社長に就任したので、そのくらいのスピード感で継承しようとは考えていたのかもしれません。
カリスマ的な先代からのバトンタッチで「難破」の危機に
実は、小平に戻ってから10年ほどは、会社のことを自分事にできず、そこまでコミットできずにいました。というのも、私は小平とは別に3社のスタートアップを経営していて。もしあのスタートアップがうまくいっていたら小平を辞めていたかもしれません。今振り返ると、小平には「コンサル」のような立場で4割くらいのパワーしか投下していなかったので、本質的な継承には10年くらいかかったというのが実感です。
この10年間は社内の信頼残高の蓄積や、小平に対する解像度を上げる修行期間だったのかなと思います。
ーー解像度を上げたとのことですが、「100年企業」になれた一番の要因は何だと思いますか?
会社の基盤事業が初代から代ごとにかなり変化していることからもわかりますが、「変化への耐性」があることでしょうか。
先代が現役の時に作ったコーポレートアイデンティティが「新しい老舗」。その際に今の会社の企業ロゴも作ったのですが「水」をイメージしており、「新しい老舗とは水のように形は変わるけれど、本質的なものは変わらない」というようなことを先代がよく言っていました。このあり方が小平の強みなのではと感じています。
ただ、私が組織面に関わる前の小平は、「飲み会ですべてを解決する会社」でした(笑)。強烈なリーダーシップとカリスマ性を持つ3代目社長がいて、残り全社員がついていくという関係性で。当時すでにそれなりの規模感のある会社だったのですが、何かしらトラブルが発生すると飲み会で解決するという「飲みニケーション」の風習がまだ残っていました。
5年ほど前、それまで経営に携わってきたスタートアップ関連の事業を一度清算し、自分の休養期間を経て小平に戻ってきた時、コロナ禍も相まって会社がひどい状態になっていました。「このままだと会社が持たない」と危機感を覚えましたね。
一旦父から全株式を引き継いで全事業を継承し、会社のあり方を変えないといけない。そう判断したのが2021年の後半でした。
同世代を「人事担当役員」にしてスタートした理念策定
実質的な事業承継後、2022年春に退職した役員の後任として、同世代の池田氏に副社長兼CHRO(最高人事責任者)として入社してもらいました。自分が以前より関わっているNPO法人活動で親交のあった人で、人柄までよく理解している間柄でした。
そして、池田氏をリーダーとして、同年9月にミッション・ビジョン策定のための役員合宿を1泊2日で実施しました。その時点ではまだ会社の中が混乱していて、役員同士の仲もギクシャクしていたので、初日にチームビルディングのためのワークを実施しました。お互いの中のネガティブな感情を出し切り、その上で2日目にミッションの策定に着手したというわけです。
こうして完成したのが「海の冒険者を祖に持つ『新しい老舗』として、不確実性の荒波を乗りこなし、これからの百年も安心と希望を社会に届け続ける。」というミッションです。
最初は案として当たり障りのない言葉が並んでいましたが、それを議論を重ねて少しずつ少しずつアレンジしていきました。最終的に着地した案が出てきた時、役員全員が「完全にフィットした」と直感的に合意できたんです。これはとても印象深い瞬間でしたね。「海の冒険者を祖に持つ」という表現は、先祖が海賊だったという言い伝えから取りました。
この経営理念(ミッション)をもとに、10年後2032年の時点でどこにたどり着きたいかを「KOBIRA Vision 2032」として副社長と二人でまとめました。
KOBIRA Vision 2032
Vision1
日々の暮らしを守り抜く KOBIRAが、街の安心の象徴となる
Vision2
地域だからこその可能性が花開く、ワクワクあふれる街を生み出すVision3
あらゆるライフステージとライフスタイルを受け入れる懐の深い組織となるVision4
世界に開かれた「出島」となって先陣を切って進化し、全国の中小企業に刺激を与えるVision5
成長も環境もあきらめない。経済活動の矛盾から逃げずに新たなサービスを生み出すVision6
鹿児島、日本、世界に、KOBIRAビジョンを実現するためのネットワークを創る
以前も「新しい老舗」と謳ってはいましたが、この言葉に紐づく経営を具体的に実践しているという感じではなかったので、次はそこに着手しました。つまり、企業として我々が社会にとってどんな存在意義を示しているのかをきちんと言語化した上で、パーパス(理念)経営に大きく舵をきることを全社員に向けて発表したわけです。
16個のバリューは多すぎる?それでも全社員で守り続ける
ーーあえて事業領域を限定しないミッションとしているのですね。
そうですね、弊社は代々様々な事業を展開してきたので、今後も事業領域が増えると想定しています。その際に「安心と希望」から外れなければ、「老舗」にふさわしい意義ある事業であれば、OKですよ、という線をミッションで示しています。
今、全経営判断はこのビジョンに寄り添っているかで下されています。また、年1回開催する取締役会や役員会などでは、このビジョンにどこまで近づいているかの達成度を常に見ながら経営計画について話し合うようにしています。
ーー創業から様々な領域に挑戦し続けている歴史があるからこそ、これからも変わり続けるのが貴社のDNAなのですね。バリューについても教えてください。
バリューは社員からのボトムアップで作成しました。
全社員に向けた「経営ミッション発表会」の場で、社員全員からバリューの種となり得る「小平らしさを感じたエピソード」を集めました。それをもとに、役員と、様々な部署から一人ずつ集めた代表者と共に3回ほど協議を重ねて最終的に16個にまとめ、同年11月に全社に向けバリューとして発表しました。
16個というバリューの数は多い方だと思いますが、もともと「社内の問題を飲み会でしか解決できない」という課題を抱えていたので、今はバリューを重視する姿勢を社内に示して、必ず16個全部を守っていこうと努力しています。
現在、バリュー評価を人事評価に取り入れ、全社員がバリューを体現しているかを問われるので、社内でかなり浸透してきていると実感しています。
ーー16個の中で小平社長が一番大事にしているのは何ですか?
好きなのは、「『未来の世代の安心と希望』につながる仕事をしよう」と「自分の『やりたい!』から始まるチャレンジを」ですね。
後者に関しては、できる限り社員個人のWillと会社の方向性を併せる方がより大きな力を発揮すると考えているからです。私たちは会社を「船」に例えていて、こういう仕事がしたい、こういう方向に漕ぎ出していきたいという社員のWillを尊重しながら長い航海を続けていきたいと考えています。
時には「船を降りる」という選択をすることもあるかもしれない。でも、それはそれではよいと思っていて、「またやれることがあったら戻ってきてね」という懐の深さを持ちたいですね。そういうところが「老舗らしさ」だと思いますし。
本社を移転し街全体を活性化…「変な会社」だから人が集まる
今年2月に鹿児島県日置市湯之元に新社屋が完成し、本社を移転しました。ミッションやバリューを波や冒険をイメージして作成したので、そのイメージを新社屋のデザインに反映させました。横から見ると波のようにうねる屋根にしたのもその一つ。空から見るとマストのような三角形で、建物全体が冒険を繰り広げる「船」としての位置付けです。
また建設資材には地元産の杉と檜を採用し、いざという時には地域の避難所となる耐震性を備えた構造となっています。これも「安心と希望を届け続ける」と体現するものと言えると思います。
また、ビジョンの体現として、会社の利益の一部を活用し、シャッター街になってしまっている湯之元の街全体を、温泉街として創造的に再生することにも取り組んでいます。
「街全体をオフィスにする」という発想で近所の空き家を改修してミーティングルームにしたり、私の親族が商売していた店舗跡地に誰でも無料で使えるテイクアウト専門店を作ったり、湯之元全体に様々な機能をつけ、誰もが創造的に楽しめる環境に生まれ変わらせています。
ーーこの活動は地域の人たちから喜ばれますね。
そうですね、実際に地域の皆さんに喜んでもらえていてありがたいです。
そして、これが人材獲得という面でもプラスに働いています。
実際に本社を移転してまで、策定したビジョンを達成しようと本気で動く会社は、あんまり存在しないのではないでしょうか。「こんな訳のわからないことをやっている変な会社」という面白さに惹かれるのか、採用も大変好調で、スタートアップからの転職組も多いです。転職組にもどんどん権限を渡して新しい挑戦をしてもらうようにしています。
50年先も「航路を決して見失わない会社」でい続ける
ーー最後にこれからの展望を教えてください。
ミッションやビジョンといった「企業理念」の素晴らしいところは、たとえ自分が突然死ぬようなことがあっても、後世に残る点です。自分がいなくなる50年先も「航路を決して見失わない」。そんな会社であってほしい。
2032年で今のビジョンはひと段落するので、その次のビジョンを策定する際は、その時代の環境にあった新たな歴史を設定すればよいと考えています。「変化への耐性」こそが、小平が「100年企業」として生き延びてきた理由でしょうし、この先も「水」のようにしなやかに歴史を重ねていきたいですね。
「企業理念ラボ」には、
企業理念の言語化や浸透策の
事例が豊富にございます。
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小平株式会社
小平勘太さん
1980年生まれ、京都大学農学部、イリノイ大学院、ITコンサルを経て、農業系スタートアップを複数起業。その後、2012年より、112年の歴史を持つ、地域商社 小平株式会社の4代目社長に就任。エネルギー、IT、貿易事業を運営しつつ、2022年より「第4創業プロジェクト」として、理念経営に舵を切り、「新しい老舗」として次の100年に向けて、継続的な挑戦を続けている。
会社情報
- 社名
- 小平株式会社
- 代表者
- 代表取締役社長 小平勘太さん
- 本社所在地
- 鹿児島県日置市東市来町湯田3319-13
- 従業員数
- 75人(2024年6月時点)
- 創業
- 1912年
- 事業内容
- エネルギー(LPG、電気)・ITソフトウェア開発・貿易をはじめとする地域商社