INTERVIEW

明治創業の小さな旅館の4代目、
倒産の危機から新卒採用倍率が75倍の人気企業に

興味のあるトピックが一つでもあれば、この記事がお役に立てるかもしれません。

  • 家族経営の小さな旅館の子として生まれ育つ
  • 家業が傾き、27歳で会社員を辞め新スタイルのホテルに挑戦
  • 偶然テレビで見た「建築デザイナー」の作品に釘付けに
  • 「1泊2食で2万5000円の宿は失敗する」それでも任せてくれた父
  • 家族経営のスタイルから脱したきっかけは、2度の集団離職
  • 「会社は結局、人」よく言われる言葉が腹落ちした瞬間
  • 本音を言わない従業員と向き合い続けて、見えてきたこと
  • 「いつか新卒採用をやりたい」そこからスタートした理念策定
  • エントリー500超、採用倍率75倍。新卒採用が大成功
  • 別府から世界に挑戦する、その決意宣言としてミッションを策定
  • いつの時代も「誠実」であり続けたから、新しいチャレンジができる

有名・無名問わず、日本中の「すんごい100年企業」を発掘していく「企業理念Times」の連載。生き残る理由を「企業理念」の観点から丁寧に紐解いていきます。今回は明治後期(1900年頃)創業の関屋リゾート。

 

家族経営の小さな旅館を営んでいた父が、経営不振から倒産のピンチに陥ったことから、会社員を辞め家業を手伝うことになった4代目社長の林太一郎。「このままではジリ貧のまま……」と、20代で1億6000万円の借入をして和モダンホテルを開業し、新しいスタイルで別府から世界を目指すその歴史と挑戦を聞きました(聞き手:企業理念ラボ代表 古谷繁明)

家族経営の小さな旅館の子として生まれ育つ

家族経営の小さな旅館の子として生まれ育つ

ーー最初に関屋リゾートの今に至るまでの沿革を簡単に教えてください。

 

関屋リゾートの前身となる旅館は、明治の後期(1900年頃)、私から見て「ひいおじいちゃん」「ひいおばあちゃん」にあたる人が創業しました。そこから数えて私は4代目となります。別府に「林旅館」という小さな宿を建てたそうです。その隣に「関屋旅館」という別の宿がありまして。正確な時期は定かではないのですが、「林旅館」と「関屋旅館」を一つに統合することになり、その際、「関屋旅館という屋号が格好いいね」ということで名前をいただきました。

 

それから年月が流れ、私の両親の代になりまして、昭和60年(1985年)頃に別府の元町から北浜に移転をしました。その時に新築したのですが、当時はまだ10室くらいの小さな旅館でした。1975年生まれの私は、そこの旅館の子どもとして育ちました。両親と数名のパートさんで営む本当にこじんまりとした事業でした。

 

私は4人兄弟で、上に姉、下に弟が2人います。大学は大分から関東に進学し、そのまま東京に就職するつもりでいました。ところが、4人兄弟の誰も大分に残りそうもない。父もどことなく寂しそうにしているので、大分に帰るという決断をしました。とはいえ、いきなり家業を継ぐことはせず、地元で建築資材の卸を営む企業に正社員として就職しました。

家業が傾き、27歳で会社員を辞め新スタイルのホテルに挑戦

家業が傾き、27歳で会社員を辞め新スタイルのホテルに挑戦

その会社に5年ほど勤めたのですが、1990年代後半から父が旅館の経営に行き詰まり、家族の危機が訪れます。今から考えれば、電話帳だけの営業で旅行エージェントも使わず、「お馴染みさん」しかお客さんがいなかったので、それが細っていった当然の結果かな、と思います。

 

さてどうしようかと考え、結局、私が会社を辞めて旅館を手伝うことになりました。それが27歳くらいの頃。今から20年ちょっと前ですね。

 

何とか頑張って売上は改善したものの、やはり宿の規模自体が小さく、魅力も乏しいのでそれ以上の成長は見込めない状況でした。これを何とかしたい。考えあぐねていた時に、地元の金融機関の方から「もう一店舗出しませんか?」というご提案をいただきました。父は経営が苦しい中でも毎月きちんと融資の返済を続けていて、ちょうど完済したタイミングだったのです。

 

それから2年後に新店舗を出すというチャレンジに乗り出し、当時別府にはなかった露天風呂付客室のデザイナーズ旅館「別邸はる樹(6部屋)」という宿をオープンしました。「別邸はる樹」は少しずつ順調に売上が伸びていき、10年後の2015年には「テラス御堂原(14部屋)」を、2020年には、温泉とアートを融合した滞在型リゾート「GALLERIA MIDOBARU(35部屋)」をそれぞれ開業しました。そのタイミングで両親が営んできた「関屋旅館」は閉じ、現在3店舗で運営しています。

 

写真は上から順に「別邸はる樹」「テラス御堂原」「GALLERIA MIDOBARU」。

偶然テレビで見た「建築デザイナー」の作品に釘付けに

そもそも、別府は有名な観光地なので、やはりライバルが多いんです。百数十軒の旅館やホテルが集中していますから。その前提に立ち「新しい宿を作るなら何か特徴がないといけない。規模ではライバルに勝てない。そうなると、何か隙間を狙っていかないと……」とあれこれ考えていました。

 

地元がまだやっていない「隙間」とは何なのか?ずっと考え続けていた時に、たまたまテレビで「情熱大陸」という番組を目にしました。番組の中で、建築デザイナーの松葉啓さんが箱根などの観光地におしゃれな和モダンの宿を次々に手がけている姿を見て、「これを別府にも持ってきたいな!」とピンときました。

 

それで早速、ダメ元で松葉啓さんに連絡してみたところ、「ちょうど九州に行く予定があるので、会いましょう」と嬉しいお返事をいただきました。その後はわりとトントン拍子に話が進みました。

 

別府は当時、団体旅行客が中心で宴会やそのあとの二次会が必須。そのためどうしても北浜の駅周辺に宿が集中していました。それを踏まえ、私たちはそのエリアからあえて外れた別府の別荘地に新しい宿を建設することに決めました。これまで別府が狙って来なかった「ゆったりと過ごしたい個人客」にターゲットを絞ったわけです。

「1泊2食で2万5000円の宿は失敗する」それでも任せてくれた父

ーーお父様の代の経営危機から家業に関わることになった林さんですが、実質的にお父様から経営を引き継いだのはどのタイミングだったのでしょうか?

 

私が実質的に経営にコミットしたのは、「別邸はる樹」を作ったタイミングですね。実は父は「別邸はる樹」が失敗すると思っていたそうです。従来のロジックでは、どう考えても成功しないだろう、と。

 

というのも、当時の「関屋旅館」では1泊2食で1万円の値付けをしていたのに、「別邸はる樹」は2万5000円に設定したからです。そんなに値上げをしてはうまくいくはずがないと、父は感じたのでしょう。もし「別邸はる樹」が失敗した場合は、「関屋旅館」で引き取って面倒を見るしかないとまで覚悟していたようです。

 

父がそこまでの覚悟をした上で、私は商売をやらせていただいたわけですが、2年目から「別邸はる樹」の売上が、「関屋旅館」を上回るようになりました。それを見た父は、「自分が経営をやるより、息子にやらせた方がいいいんじゃないか」と思うようになり、最終的に「別邸はる樹」のオープンから5年目にして私が正式に会社の代表となりました。

 

やがて、「別邸はる樹」の開業10年目には、銀行からの借入に関しても父の連帯保証を外して私が引き継ぐことになります。

家族経営のスタイルから脱したきっかけは、2度の集団離職

家族経営のスタイルから脱したきっかけは、2度の集団離職

ーー完全な家族経営から脱し始めたのはどのタイミングですか?

 

2015年に「テラス御堂原」を開業した時点で、6、7人だった社員が10名を超えました。施設が3つに分かれていることもあり、そのタイミングから人のマネジメントに苦労するようになりました。

 

ーーそろそろ従来の家族経営スタイルから、組織経営に脱皮していかなくてはならないな、と感じたわけですね。

 

そうですね。やはり一番の問題は、人が辞めていくことでした。集団離職も2回ほど経験し、かなりの挫折感がありました。一度目は、やはり「別邸はる樹」をオープンした時。1年でスタッフが全員入れ替わってしまいました。

 

原因は、重要なポジションに就いていたスタッフの一人に、どなり散らす人がいたこと。採用時点ではその点に気づくことができなくて。とにかく現場ですぐにどなり散らすので、周囲のスタッフが萎縮してしまい、職場がギクシャクするようになりました。私もなんとか態度を改めてくれるように交渉するのですがうまくいかず、結局解雇せざるをえなくなりました。

 

当時、私はまだ30歳そこそこで経験にも乏しく、今から思えば「自分はこんなに頑張っているのに、どうして……」というエゴが強く出ていたのではないかとも思います。ただ6室の旅館なので、自分が人の3倍働いてなんとかマンパワーで乗り切ることができた。しかし、2回目の集団離職のタイミングでは、施設の数も規模も大きくなっていたのでそうもいきません。

「会社は結局、人」よく言われる言葉が腹落ちした瞬間

一番の問題は、最初の集団離職の根本原因だった私自身の課題を、解決せず放置したまま2回目の集団離職が起きてしまったことです。つまり、「社長である自分だけがなぜ…」という孤独な気持ちですね。組織でいえば、常に「社長とそれ以外」という感じなんです。

 

それでも、「テラス御堂原」のオープン時に、「別邸はる樹」と時と同じような集団離職が起きた時、私もようやく気づくことができました。

 

世の中には、うまくやってる会社がたくさんある。でも、今の自分にはその能力がなく、できないんだ、と。そこから勉強を始めました。本を読んだり、セミナーを聞いたり、うまくいっている会社は何をやっているのかを研究するようになりました。最初は自分一人で勉強していましたが、実際に業務にあたるのは当然自分だけではありませんから、専務である弟や課長と3人で「なんとかしよう」と力を合わせて学び続けました。

 

まずは、面談制度を導入しました。今でいう1on1ですね。でも、最初は全然本音を言ってもらえなくて。それでも根気よく続けていると、だんだん本音が出てくるようになりました。結局、会社というものは、「人」なんですね。私自身、倒産寸前の状態を経験していますから、損益計算書などの数字にはものすごくこだわりがありました。利益体質を作り上げていくことこそが大事だと。でも、損益計算書には載らない「人」というものを、どこかで軽視していたんです。

本音を言わない従業員と向き合い続けて、見えてきたこと

これからは、そこで働く人にとって幸せな職場を作らなくては、と心に決めました。改善策を探そうと、「何がうちに足らないですか?」と従業員の人に聞いていくと、どの回答にも必ずヒントがある。それを捉えて少しずつ確実に変えていきました。

 

特に印象的だったのが「キャリアアップ」に関することです。役職に就くことに前向きではない人が多かったので、前向きになれる雰囲気を作り出したいなと思っていました。これも面談でいろいろ聞いて見えてきたのは、何をしたら役職に就くことになるのか、役職に就くとどんなメリットがあるのか、といった点が従業員の皆さんにまったく伝わっていないという現状です。

 

それで作ったのが主任昇進のための試験。これまでは「数年やって仕事にも慣れてきたから、そろそろ主任でもやらない?」という感じでお願いをしていました。それを自分で手を挙げて試験を受け主任になるという制度に変えました。

 

ーー現在は従業員が68名いらっしゃるそうですが、社長ご自身が面談されるのですか?

 

私自身が面談をするのは半期に1度、年に2回で、毎月の面談はマネジャークラスが分担して行い、すべての情報は私まで届く仕組みになっています。

 

私は当初から「起業したい」「社長になりたい」といった思いがないまま、父親他、家族のピンチを放っておけずにこうして経営をやることになりました。でも、やっているうちに「このままではジリ貧だから何とかしなければ」と想いに駆られてあれこれ試し……そうこうしているうちに社員が20名になり、さらに増えてという感じで、常に「受け身」だったと思います。

 

でも、こうして数々のピンチを経て組織を改善していく中で、その姿勢にも変化が生まれていきました。

「いつか新卒採用をやりたい」そこからスタートした理念策定

「いつか新卒採用をやりたい」そこからスタートした理念策定

父から経営を引き継いで以降、そんなふうにずっと「受け身」だった私が、唯一自分から積極的にやりたいと思っていたことがありました。それは「新卒採用」です。私が社会人として最初に勤めた会社は、建築資材の卸という業界には珍しく新卒採用をしていました。その体験がとてもポジティブなものとして自分の中にありましたし、知り合いの経営者からも「新卒は最初は手がかかるけど、育つと組織にとっていいよ」と聞いていたので、いつか必ずやりたいと考えていたんです。

 

でも、「こんな地方の中小企業に新卒の若い人が入社してくれるわけがない」と思っていました。「やりたいけど、今は無理……」と逡巡しながら数年が過ぎました。やがて事業が少しずつ成長し、やっと「そろそろいけるかな」と感じられるようになったので、新卒にチャレンジするからには環境を整えなくてはと、いよいよ本格的に組織改善に着手しました。

 

先ほどお話ししたような人事制度だけでなく、休暇もきちんと整備して増やさなくてはいけませんし、お給料の設計も整えなくてはなりません。少なくともハローワークにしっかり求人を出せるだけの情報を整備する必要がありました。

 

とはいえ、制度を整えるだけでは不十分なんですね。大学を卒業した若くて優秀な人材に地方の中小企業へ入社してもらうには、「(事業規模が今後も)現状維持ですよ」というスタンスではとてもダメだろうな、と。やはり着実に事業が伸びている、あるいはそうなるためにしっかりとした目標があるということが重要だろうと考えました。それらを実現し、地域で誰もが知っているような会社を目指していくという志がなければ、新卒採用をやってもうまくいかないでしょう。

 

企業理念を整理したのも、まさに新卒採用に向けて準備をしていたタイミングでした。策定したのは、今から5年ほど前になるでしょうか。

理念は3つ、「非日常の体験を通してお客様の満足を追求します」「常に挑戦します」「仲間を信頼し、共に学び成長します」。一つずつご説明していきましょう。

 

一つ目の「非日常の体験を通してお客様の満足を追求します」は、私たちがやってきたホテルや旅館は、ビジネスホテルのような日用のものではなく、大切な記念日に泊まっていただく特別な宿です。つまり別府に来たらからここに泊まるのではなく、ここに泊りたいから別府に来たという順番で捉えていただくものなんですね。そういう宿を目指してずっとやってきているので、「非日常」を追求し続けることはとても重要だと考え、企業理念の第一項目に入れました。

 

二つ目の「常に挑戦します」は、私の代になって新しいチャレンジをいろいろとやり、結果として成長できているので、その姿勢は今後も継続していこうということで加えました。

 

そして最後の三つ目の「仲間を信頼し、共に学び成長します」は、集団離職など過去の私の苦い経験を踏まえたもの。旅館業界はどうしても従業員の稼働時間が長くなりがちです。お客様は1泊でも20時間くらい滞在されます。すると、やはりどの仕事も一人では成立せず、チームワークがとても重要になってくる。その前提を踏まえて、前半部分は絶対必要だと明記しました。後半部分は、私自身が学ぶことを通じて数々の困難を乗り越えてきたので、その姿勢を従業員の皆さんにも知ってほしいという想いがありました。

 

この3つの理念は、「テラス御堂原」を開業した時に、私が一人頭をひねって書き出したものです。

エントリー500超、採用倍率75倍。新卒採用が大成功

エントリー500超、採用倍率75倍。新卒採用が大成功

ーー新卒採用は、うまくいきましたか?

 

はい。2020年卒を採用した2019年が初めての新卒採用でした。たった18名の会社だったのに、10名も採用しました(笑)。今もみんな頑張って働いてくれています。おかげさまで新卒採用はその後も順調で、今ではエントリー数が500を超え、採用倍率は75.4倍に達しています。3年離職率も、業界平均が50%を超えているところ弊社は7.5%に止まっているので、これまでのチャレンジが無事に成果に繋がっているのかなと実感しています。

新卒採用に向けて理念だけでなく、ビジョンも策定しました。それが「2028年までに売上15億円を達成し、お客様と社員満足度No.1の業界リーディングカンパニーを目指します」というもの。将来、目指す規模と、自分たちがどういう存在なのかを明確に言葉にしました。それによって、私自身も腹を括れました。なにしろ、策定当時は売上3億円の会社でしたから、10年で5倍という大きな夢です。

 

私たちは「別府を世界のリゾートに」という目標も掲げていますから、売上目標を達成すると共にそれも一緒に実現していきたいですね。

 

ーー学生からの反応はどうですか?

 

「こんな会社、なかなかない」というポジティブな声をいただきました。社長である私自身が前面に出て合同説明会でたくさんプレゼンもしました。「社長」をフル活用し、理念やビジョンを全力で伝えていますね。待ってるだけでは絶対に来てもらえない。今、新卒で採用した1、2年目の子がかなり成長してきたので、これまで幹部がゴリゴリやっていた部分を彼、彼女たちが中心となって担ってくれるようになり、かなり組織が変わってきたと感じます。

別府から世界に挑戦する、その決意宣言としてミッションを策定

別府から世界に挑戦する、その決意宣言としてミッションを策定

最近ではミッション「旅で世界とヒトを明るくする」も掲げています。理念やビジョンに関してここまでやってきて「実現できそうだ」という手応えを感じられるようになったので、さらに自分たちが関わる範囲を広げていこう、と。

 

ビジョンにある「業界のリーディングカンパニー」という言葉自体がやや内向きだなと、ある時点から感じるようになりまして。業界を超えて誰もが賛同できることにチャレンジしていきたいな、と考えたことがミッション策定のきっかけでした。

 

例えば、来年また新しい施設をオープンするのですが、これもミッションに則ったチャレンジです。今回は、従来の旅館ではなく、私たちが建てた施設を世界中のいろいろなオーナーの方に所有していただくコンドミニアム方式にする予定です。

 

このチャレンジを通じて実現したいのは、日本国内だけでなく、海外にも別府のファンを増やすということ。ホテルが繁盛すれば、利回りでお客さんにとってもプラスに働きます。すると、国内外に別府を盛り上げようとするファンが増えていく。このモデルは、ニセコや沖縄から学んだことで、今後人口減少が続く日本では海外にファンを増やしていくことが重要になってくるだろうと考えました。

 

今はまだ「別府」というフィールドでチャレンジをしていますが、ひいては日本全体を視野に入れられる会社になっていきたいなと思っています。

いつの時代も「誠実」であり続けたから、新しいチャレンジができる

ーー絶えずチャレンジする姿勢が本当に素晴らしいです。最後に、御社が120年間続いてきた一番の理由は何だと思いますか?

 

やっぱり、父の代、祖母の代から「不義理」をしなかったことでしょうか。私たちがやってきた旅館業には、建物を建てるために最初に大きな投資が必要です。そうなると、必ず金融機関から借入をしなくてはなりません。私自身「別邸はる樹」を建てた時、まだ20代でしたが、1億6000万円の借入をしました。それは当時の私にはとても大きな額でしたが、金融機関がそれを20代の若造に貸してくれたのは、父やその前の代も返済をしてきたこと、経営が苦しくても約束を守り続けてきたことがあったからに他なりません。

 

その先代、先々代からの積み重ねがあったからこそ、私もチャレンジさせていただけた。その意味で「誠実である」ということがとても重要なのだと思いますね。

 

ーー心に沁みる言葉ですね。誠実であり続けて不義理をしない。小さな家族経営の旅館を3代にわたりその姿勢で続けてきたからこそ、4代目にして大きな飛躍を遂げられたわけですね。今後もさらなる飛躍を楽しみにしています。

「企業理念ラボ」には、

企業理念の言語化や浸透策の
事例が豊富にございます。
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企業理念ラボにちょっと相談してみる。 | 企業理念ラボ

株式会社関屋リゾート 

林 太一郎さん

創業120年以上の歴史を持つ関屋リゾートの代表として、当時、大分別府に他にない デザイナーズ旅館をいち早く導入。常に革新的な挑戦をし続け、入社時の売り上げから20倍以上の成長を作り出している。別府を拠点に個性的な宿泊施設を現在3店舗を展開。各館を高稼働に導く。人的資本にいち早く着目し、人財育成と採用に力を入れ、GPTW働きがいのある会社2年連続ベストカンパニーを達成。「旅で世界とヒトを明るくする」というミッションを掲げ、ますます活躍の範囲を広げている。

会社情報

社名
株式会社関屋リゾート
代表者
代表取締役 林 太一郎さん
本社所在地
大分県別府市堀田5組
従業員数
68人(2024年時点)
創業
1900年頃(明治後期)
事業内容
宿泊業
会社サイト
https://www.sekiyaresort.jp/
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