ミュージシャンをやめて事業承継し
縮小するジュエリー業界で飛躍的に成長
興味のあるトピックが一つでもあれば、この記事がお役に立てるかもしれません。
- ミュージシャンをやめ、縮小するジュエリー業界へ参入
- データを独自に読み解き、競合がいないところで勝負
- ダイエーの中内功さんに直訴し、念願の福岡に出店
- 「bijou de famille」に感銘を受け、会社のミッションに
- 思ったことは実現するから、社員には夢を描いてほしい
- バトンを渡せる組織をつくり、自身は次の夢へ
ジュエリーの企画・製造・販売をグローバルに手掛ける株式会社サダマツを傘下に置くフェスタリアホールディングス株式会社。1920年に長崎で時計の修理屋として創業し、眼鏡、ジュエリー業界へと転換。今では国内外に85店舗以上を展開し、連結売上は90億円を超えています。マーケットが縮小するジュエリー業界にあえて参入した3代目社長の貞松隆弥さんは、ある人との出会いによって、会社と自らのミッションがクリアに。接客でも、日本ジュエリー協会主催ジュエリーコーディネーター接客コンテストにおいて4大会連続で日本一に輝くなど、数々の成果を上げています。創業からの変遷、企業理念を作ったきっかけ、現状などについて、エネルギッシュに語ってくれました。
(聞き手:企業理念ラボ代表 古谷繁明)
ミュージシャンをやめ、縮小するジュエリー業界へ参入
―御社の創業からの簡単な歴史を教えてください。
弊社の前身となる株式会社サダマツは、1920年、大正9年に僕の祖父が、時計の修理屋として長崎県大村町で創業しました。祖父は海軍で時計修理の技術を身につけ、すごく腕のいい職人でした。ただ、1960年代になると時計がクオーツ化されて安価になり、修理して使う人が減ったたため、時計の修理では商売が困難に。
そこで父は1977年に眼鏡屋を出店し、眼鏡屋に転換しました。私自身はもともとミュージシャンで、父が倒れたのを機に実家へ帰り、眼鏡屋のあとを継ぐことに。そして、1993年にジュエリー業界に参入しました。

―貞松さんは家業を継ぐつもりでしたか?
大学から上京してミュージシャンをしていたので、そんな気はありませんでした。でも父が倒れたのでやむなく長崎に戻り、母と取引銀行の支店長のところに挨拶に行くと、「息子さんが帰ってきて良かったですね。ここにサインしてください」と書類を出されて。26歳で、2億6000万円を保障するという書類にサインすることが最初の仕事でした。
―なぜジュエリー業界に着目されたのですか?
当時、眼鏡小売市場は約5,000億円で最大手が1,000億円という寡占状態。一方の宝飾業界は、3兆円市場がバブル崩壊により 1.5兆円にまで縮小し、大手が撤退して、最大手でも400億円程度。しかも、原材料である金は大量に仕入れても安くなるわけではないので、大手が強いという理論が成り立たない。だから、ゼロから参入するチャンスがあるなと。
―大きな流れを捉えられたのですね。
裏のストーリーもあります。ミュージシャンをしていた頃、食べるためのバイトとして、原宿の路上で、針金を曲げて女の子の名前を作ってネックレスにすると500円で売れたんですよ。針金1本の仕入れ代が50円で、仕入れ業者が作り方を教えてくれた。アクセサリーは儲かるという原体験と、ものづくりをしたいという思いもありました。
データを独自に読み解き、競合がいないところで勝負
―1993年、沖縄にジュエリー専門の第一号店をオープンされたとのこと。沖縄にゆかりがあるのでしょうか?
いえ、偶然が重なり、沖縄から出店の話が来たのはオープンのわずか 2 カ月前。僕はその前からジュエリーアクセサリーの店を出したくて、いろんな商業施設に企画書を持ち込んでいました。でも、全く相手にされなくて…。そんな中、93年9月にイオン、当時のジャスコから沖縄に出店しないかという話が来たものの、僕は福岡に出したくて、遠い沖縄に出す気は全くなかった。
入院している父に話すと、「行って断りなさい。きちんと断れば、また話が来るから」と言うので、断るために沖縄へ。すると、案内されたのは新しくできるショッピングセンターの好立地で、店は1階の入口付近。僕は知り合いの問屋に相談すると、「沖縄には圧倒的に売上の高い一番店があって、素人がやっても無理だからやめなさい」とアドバイスされました。諦めようと思って一応その店を見に行くと、ここがそんなに売れるなら、うちでも売れるに違いない…と直感的に思い、翌日、出店すると伝えました。

―まさかの展開ですね。
父をはじめ、みんなに反対されました。父が知り合いの宝飾屋さんに息子を止めてくれるように依頼しデータを持ってきて、「沖縄は所得も貯蓄率も低いから、ジュエリーなんて売れない」とやめるように説得されました。しかし僕は「確かに所得は低いけど、預金率が低いということは全て使ってしまうということ?それに共働き率が高く、小学生からオシャレをしているから絶対売れる」と考えた。データは人によって見方が違うという勉強になりました。そして結局、オープン初日からお客さんが殺到して、初年度に4億2000万円売れたんですよ。
―最初にうまくいった要因は?
競合がなかったからです。沖縄には高級ジュエリー店しかなく、普通の女性が身を飾るファッションジュエリー店ができたと話題になりました。当時の日経流通新聞で「驚異的にヒットしているジュエリー店が沖縄にある」と紹介されて、全国のディベロッパーから出店の話が舞い込みました。ちなみに、沖縄出身のタレントの知花くららさんの番組に出たら、彼女は「すごい店ができた!」と聞き、うちの店に来てくれたと言ってました。
ダイエーの中内功さんに直訴し、念願の福岡に出店
―それから福岡の天神に出店されたのですか?
福岡の1店目は、福岡市中央区のダイエー笹丘店でした。たまたま地元の長崎の商店街でダイエー創業者の中内功さんの講演会があり、その後に中内さんを囲んで食事会をすると聞きました。僕は先輩に頼み込んで食事会に参加させてもらい、「中内さんに質問がありませんか」と言われたから、思い切って手を挙げた。そして、「実はダイエーさんに何度も企画書を持って行くけど相手にされません。どうすれば採用されますか?」と聞いたんです。
―カリスマ的な中内さんに直訴されるとは、すごい。
怖いもの知らずでしたね。すると中内さんが名刺をくれて「ここに企画書を送りなさい」と。送ると秘書室から電話がかかってきて、「企画書を持って、福岡の九州事業部にプレゼンに行ってください」と言われ、その通りにしたら念願の福岡に店を出すことができました。
「bijou de famille」に感銘を受け、会社のミッションに
―ホームページを拝見すると、企業理念として「ミッション」「ビジョン」「インパーソナルドリーム」、さらに「行動原則」「行動基準」までしっかり掲げられています。いつ頃、なぜ作られたのでしょうか?
ジュエリービジネスは最初からうまくいき、IPOをしようとベンチャーキャピタルを入れて店舗を出していく中で、実はすごく不安になったんです。僕は幼い頃から祖父に「将来、何の仕事をしてもいいけど、なくならない仕事をやれ。いらんもんはなくなる」と言われていました。会社の売上は増えるものの、マーケットはどんどん縮むので、「宝石はいらんものなのか」と疑問が湧いて。それで「なぜ人は宝石を買うのか」といろいろな人に聞くけど、「きれいだから」「資産価値があるから」という答えで、それは他にも当てはまるものがたくさんあるので、全然納得できなかった。
―確かにそうですね。
そんなある日、現代最高のダイヤモンド研磨師と称されるベルギー人のガビ・トルコフスキーと知り合い、同じ疑問をぶつけました。すると彼は笑って、「宝石屋がそんなことを聞くのか?ダイヤモンドは約30億年前にマグマの中でできた。人間はアフリカで約20万年前に生まれた。人間がいなくなっても、ダイヤモンドは永遠に輝き続けるんだ」と答え、「bijou de famille(ビジュ ド ファミーユ/家族の宝石)」というヨーロッパの習慣を教えてくれました。人間の命は永遠ではないから、宝石という永遠のものに想いを託し、親から子、子から孫へと世代を超えて受け継いでいくのだと。それを聞いて、「なるほど、宝石は唯一永遠だから役に立つのか」と僕は初めて納得しました。そして、「この習慣を伝えるためにジュエリー屋をやろう」と決意を新たにしたのです。

―それでミッションを「ジュエリーに 愛と夢を込めて bijou de famille ビジュ ド ファミーユ わたしたちの使命は 夢を叶える生き方を広め 豊かで幸せな人生を未来に伝えていくことです」とされたと。言葉は誰が考えられたのですか?
僕がひとりで考えました。ただし、祖父と父の教えが血肉になっています。祖父から「いらんもんはなくなる」という言葉をもらい、父には「思ってることはいいことも悪いことも実現するから、どうせなら、いいことだけ考えなさい」と言われて育ちました。ですから、コロナ禍に全店休業を余儀なくされて苦境に立たされたときも、悪いことは一切考えず、社員に給料を出し続けました。

―企業理念やご自分の思いを社員にどのように伝えていますか?
「サダマツの心」という小冊子や動画を活用しています。社員全員に僕のメールアドレスを公開して、何かあれば直接言ってほしいと伝えているけど、年に2件しか来なくて。会社の規模が大きくなるのに伴い、思ったように伝わらないので、最近は社内向けAIチャットボット「AIさだちゃん」というキャラクターを作ってもらい、気軽にやり取りできるように工夫しています。

―多くの経営者が試行錯誤されている点です。貞松さんは伝えることにこだわりがあるのですね。
僕は社員に「もの売りになるな。ストーリーを伝えよう」と言ってます。うちのジュエリーには商品ごとにストーリーがあるので、それをお客様に伝えてほしい。もちろん売上も大事だけど、ちゃんと伝わっているかということにこだわっています。
思ったことは実現するから、社員には夢を描いてほしい
―インパーソナルドリームとして「ブランドの成長に相応しい職への哲学とプライドを持ち 自らの仕事を通じて社会に貢献する」、クレドに「夢を持つ」「夢は必ず叶う 夢をもって生きることの素晴らしさ 目標をもち、一歩一歩進んでいくことを大切にする」とあり、ドリームや夢を大切にされている印象を持ちました。
おっしゃる通りです。うちの社員は日本ジュエリー協会主催の接客コンテストで、4 大会連続日本一になりました。三井不動産商業マネジメント「接客ロールプレイングコンテスト」でも、全国優勝しました。母が眼鏡店で成果を上げていた接客をもとに、接客を科学し、顧客管理を徹底して、独自のメソッドによるCRM(Customer Relationship Management)に取り組んでいます。ですから、みんな接客力が高く、数千万円を売り上げることができるのです。そういう中で、同じCRMを回しても、昔はベテランの販売員で腕力がある人が売れていたけど、最近は愛情を受けて育った若い社員の売上が高いんですよ。

―どうしてでしょう?
分析していて気づいたのが、インパーソナルドリームです。この言葉は、アメリカのキング牧師の「I have a dream」という有名な演説で説明できます。黒人の民権運動の中で、白人も黒人もどんな人にも同じチャンスがある、そんな社会が私の夢だと。要するに、キング牧師個人の夢だけど、みんなが共感する夢、これをインパーソナルドリームと呼びます。
売上の高い社員の例を挙げると、昔おばあちゃんからダイヤのネックレスをもらい、おばあちゃんは亡くなったけど、辛いときにそのネックレスに励まされて頑張ってきたという社員がいました。当社に入っ て、自分はおばあちゃんから“ビジュ ド ファミーユ”をもらっていたのだと初めて気が付いた。みんなにも同じように永遠に想いを受け継ぐジュエリーがあれば頑張れると思うので、ジュエリーを広めたいそうです。つまり、会社のミッションである“ビジュ ド ファミーユ”がこの社員の夢そのものであり、みんなに共感されるインパーソナルドリームになっている。会社の理念が個人の理念に進化すると最強なのだと、その社員に教わりました。
―クレドにも「夢を持つ」と入れたのは、どんな意図がありますか?
僕は父の教えによって、思ったことは実現すると心の底から信じています。ですから、小さくても大きくてもどんな夢でもいいので、社員には自分の夢を「夢設計書」に書いてもらいます。そして、その夢を実現できるように、会社としてできる限りサポートしたいと思っています。
バトンを渡せる組織をつくり、自身は次の夢へ

―最後に、今チャレンジしていることや今後の展望について聞かせてください。
僕は還暦を超えました。次世代に僕の代わりはいないので、バトンを渡せる組織をつくりたいと考えています。これまでは僕が強烈なリーダーシップを持ち、何かに長けた個性が強い人を採用して、長所を生かすことで会社が成長してきた。これからは個性の強い幹部たちがまとまり、組織としての総合力で僕を越えて会社をリードしていける、そして“ビジュ ド ファミーユ”を伝え続けて広められる、そんな組織づくりにチャレンジしているところです。それができたら、僕はライブハウスをするという自分の夢を叶えます。
「企業理念ラボ」には、
企業理念の言語化や浸透策の
事例が豊富にございます。
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お気軽にお問い合わせください。
フェスタリアホールディングス株式会社
貞松 隆弥さん
1961年長崎生まれ。成城大学卒業後、86年、株式会社サダマツに入社し、営業本部長、専務取締役を経て2000年社長に就任。06年からベトナムの自社工場D&Q JEWELLERY Co,.LTD、11年から台湾貞松の代表取締役を兼任。18年フェスタリアホールディングス株式会社に称号変更し、同社とサダマツの代表取締役社長を兼任。
会社情報
- 社名
- フェスタリアホールディングス株式会社
- 代表者
- 代表取締役社長 貞松 隆弥さん
- 本社所在地
- 東京都品川区西五反田7丁目20番9号
- 従業員数
- 連結515名(2024年8月31日現在)
- 創業
- 1920年4月
- 設立
- 1964年
- 事業内容
- ジュエリーの企画・製造・販売
- 会社サイト
- https://www.festaria.jp/