
4代にわたり「従業員は家族」を貫き
チャレンジを続けながら業界の風雲児に
興味のあるトピックが一つでもあれば、この記事がお役に立てるかもしれません。
- 関東大震災で焼失した店をみんなのために再建
- 戦後はスーツに目をつけ、いち早く中国で工場設立
- 4代全員が時代の先を読んでチャレンジしてきた
- 脈々と受け継がれる「従業員は家族」の精神
- 100年に向け、その先を見据えて、ミッションを明文化
- 社長の言動がミッションとブレないことが重要
- オーダースーツで日本のビジネスシーンを元気に
有名・無名と問わず、日本中の「すんごい100年企業」を発掘していく「企業理念Times」の連載。その歩みや生き残る理由を丁寧に紐解いていきます。
今回訪問したのは、本格フルオーダースーツ1万9800円(初回限定)という衝撃価格を打ち出し、業界の風雲児といわれる株式会社オーダースーツSADA。4代目社長の佐田展隆さんは、自ら自社スーツを着て、富士山に登る、スキージャンプを飛ぶといった奇抜なチャレンジを続けています。テレビ東京「カンブリア宮殿」などメディアでも話題の佐田さんに、100年にわたるストーリーとミッションに込めた思いなどを聞きました。
(聞き手:企業理念ラボ代表 古谷繁明)
関東大震災で焼失した店をみんなのために再建
―まず御社の創業からの沿革を教えてください。
当社は、1923年の関東大震災をきっかけに創業した会社です。私の曽祖父・佐田定三は勤め人として、和装系服飾雑貨卸の米川商店神田店で番頭をしていました。しかし、店が大震災で焼けて本家も傷んだため、神田店は放棄すると決定が下されました。それでは働く人もお客様もみんな困ってしまうと思った曽祖父は、「自分がどうにか立て直すから独立させてください」と本家に頼み、同年に独立して「米川神田」を開業。お客様から再建資金を借り、盛り上げていただいて栄えたそうです。
―お客様に支持されていたのですね。
そうなんです。ところが、再建した店も1945年の東京大空襲で全焼。ただ、疎開中だったので幸い人の被害はなく、戦後にゼロから店を立て直すことに。娘2人しかいなかった曽祖父は、秋田出身で満州の通信隊として戦った茂司を紹介されて、婿養子に。焼け野原から再興を図るにあたって、祖父は世の中を見渡し、アメリカへ商売に行く人はみんなスーツを着ていて、これからは和装から洋装の時代になると考えたそうです。そこで、洋装に強い店としてブランディングして大成功。さらに紳士服地卸商に力を入れようと、50年に初めて自分の名字をつけた「佐田羅紗店」を分離設立しました。
戦後はスーツに目をつけ、いち早く中国で工場設立
―時代の先をよみ、和装から洋装に転換し、スーツ生地卸も始められたと。
スーツはアメリカの大統領に対峙しても通用するドレスコードです。日本の戦争帰りの若者は、ビジネスや大事なシーンに備えて、勝負服としてスーツを仕立て始めました。すると、テーラーさんが必死に夜なべして縫っても、なかなか追いつかない状況に。それを知った祖父は、工場を作ろうと決意し、「佐田被服工業」として1967年宮城県三本木町に工場を作って、テーラーさんからどんどん仕事を受けたそうです。その後、79年に佐田羅紗店と佐田被服工業を合併し、「株式会社佐田」を設立。生地の仕入れから縫製までワンストップサービスの提供を開始しました。
―2代目で工場まで作られたのですか。
1986年に社長に就任した私の父・久二雄は、問屋ではなく、自ら付加価値を生み出すメーカーを伸ばす方針で、国内3工場まで増やしました。岩手の西根工場は、私の幼少期に土地の視察から竣工まで連れて行ってもらい、父が従業員の前でこんな工場にすると挨拶していた様子をいまだに覚えています。
父はさらに90年に中国の北京に工場を竣工。日系企業が中国に進出する最初のグループで、中小企業ながら父の先見の明はすごいと思います。ちなみに、戦争を経験している祖父は、中国進出に大反対だったそうですが…。
4代全員が時代の先を読んでチャレンジしてきた
―3代それぞれ新しいことをされてきたのですね。
2003年父の要請で私が会社に入り、04年工場直販店「オーダースーツSADA」1号店を神田に出店し、Webサイトでの販売も開始。05年に代表取締役に就任しました。破綻寸前の会社を黒字化したものの、莫大に抱えた有利子負債の問題を解決するため、07年金融機関の債権放棄と共に会社を再生ファンドに売却。しかし、当時のオーナーから立て直しを任され、11年に佐田に復帰して、翌年代表に就きました。メーカーから作ったものを自分で販売する製造小売業にシフトして、今は売上の9割以上を小売が占めています。
―佐田さんが代表に復帰後、V字回復したと聞きました。
父には前々から「お前の代には何をやるのか」と問われてきたので、会社を小売業に変えたというのが私の成果だと考えています。私が会社を引き継いだ翌年2013年7月期の売上は18億5000万円でしたが、2023年7月期は35億3500万円と順調に伸びています。
振り返ると、4代全員が何かしらチャレンジしてきました。曽祖父は関東大震災後に独立し、祖父は和装から洋装に商売を変え、工場を作って成功しました。それを引き継いだ父は、会社をメーカーにして、中国まで進出。そして私は、メーカーを小売業に変えたというのが当社の歴史です。
脈々と受け継がれる「従業員は家族」の精神
―1923年の暖簾わけから始まった御社は、103年の長い歴史があります。昔から受け継がれてきた企業理念のような言葉はあるのでしょうか。
特に理念としての言葉はなかったのですが、祖父は「従業員は家族」と常々言っていました。東北から集団就職で東京に来た中卒や高卒の人たちを会社で受け入れて、祖父母が父母役となって一緒に過ごしていました。
さらにさかのぼると、曽祖父は関東大震災で本家が神田店をやめると聞いたとき、従業員たちは家を失い、働く場所までなくしたら生きていけないじゃないかと心配し、雇われ番頭だったのに資金調達をして、みんなを家族のように守ってきたのです。
一方で、父はバブル崩壊で厳しかった時期に、自分が希望を持って作った岩手の工場を閉鎖し、従業員を解雇しました。それがどれだけ辛かったのか、父は私にもよく話してくれました。私が社長を引き継ぐときも、佐田家を優先するな、従業員の雇用を最優先に考えるようにと強く言われて、その言葉を胸に刻んでいます。

100年に向け、その先を見据えて、ミッションを明文化
―今はホームページでミッションを打ち出されています。どんなきっかけで、いつどのように作られたのでしょうか。
東日本大震災の後、私は当社に入って売上を回復すべく躍起になって取り組み、3~4年経ってちょっと落ち着きました。そこで100周年に向けて、そしてその先まで見据えて、しっかりとしたミッションが必要だと思い、明文化しました。
―それまでは作っていなかったのでしょうか。
しっかりしたものはなかったですね。父はインテリだったので、「全てのステークホルダーを」などと言ったこともありますが、従業員には刺さっていない感じがしました。それで、私は噛み砕いた言葉にしたつもりです。
―改めて、ミッションを教えてください。
当社ではミッションとして「全従業員の物心両面の幸福を追求すると同時に、オーダースーツの着心地と楽しさで日本のビジネスシーンを明るく元気にする。」とうたっています。
私は京セラ元会長の稲盛和夫さんを尊敬していて、盛和塾にも入っていたけれど、直接お会いする機会はありませんでした。でも、著書を全て読み、経営に生かしている自負があります。前半の「全従業員の物心両面の幸福を追求すると同時に」は、まさに稲盛さんの教えです。
―なるほど、盛和塾の教えを取り入れられているのですね。
稲盛塾長では、何百年も通用するものを理念に掲げるべきとおっしゃいますが、そうすると抽象的になってピンと来ないと思い、後半は具体的にビジネスをイメージできるようにしました。「オーダースーツの着心地と楽しさで日本のビジネスシーンを明るく元気にする」というのは、どこかの段階で「オーダースーツ」が「ファッションの力」などもっと広い意味の言葉になるかもしれません。「オーダースーツの着心地」というのも、商材がオーダースーツではなくなる可能性もあります。それでいいと私は思っています。
「日本の」としたのは、とりあえずは日本市場を制するぞという思いですね。これも「世界の」になるかもしれないし、ビジネスシーン以外に広げていく可能性だっていつかはあるでしょう。ただし、「世の中を明るく元気に」という思いはずっと持ち続けたいと思っています。
社長の言動がミッションとブレないことが重要
―ミッションを社内でどのように活用されているのでしょうか。
作ってすぐは様子を見ていました。唱和するように言うと、やめていく従業員がいっぱいいるかもしれないと思って(笑)。ただ、そろそろいいかなと7、8年前から週1回の朝礼で、全員で唱和しています。
―はじめのうち、従業員の反応はいかがでしたか。
読まされてる感はありましたよ。でも、それでいいと思ってます。ただ、ここに書いてあることと、私がやってることや私が何かのときに指摘したり厳しく言ったりすることの間にブレがないことが大事なんです。私から見ると、祖父も父も一切ブレない人でした。人材教育って何かと言えば、それしかないと感じています。口で何を言ったって刺さらない。言ってることとやってることが一緒かどうかって話だけだと思うんです。
―なるほど。唱和することで、何か変化がありましたか。
みんなそう思うようになったのではないでしょうか。私は、卵と鶏はときにひっくり返ることがあると思っています。理解したらそうなるのはもちろん、言い続けると、そんな気分になってくると。
歌手のさだまさしさんが「幸せになるにはどうしたらいいですか」とライブで質問を受けて、「私は幸せです、幸せですと言い続けてみてください。いつか思いますよ、私って幸せなのかもって」と笑いを取ってたんですよ(笑)。これは私の祖母の教えとも通じていて、「とにかく笑顔でいなさい。幸せな人が笑顔になるんじゃない、笑顔の人が幸せになるんだからね。うちは商売人の家だから、展隆、笑顔でいなさい」といつも言っていました。
―昔の人の教えには真理があると感じます。
祖父には「迷ったら茨の道を行け」といつも言われていました。人間は怠惰なので、目先のラクな道を選びがちですが、長い目で見たら茨の道が正解なんです。映画のランボーやキリスト教の解説書などでも、「わあ、祖父と同じことを言ってる」と感じることがあって、面白いものですね。
オーダースーツで日本のビジネスシーンを元気に
―経営者としての信念や志について教えてください。
会社にはいろいろなステークホルダーがいますが、「企業は従業員のためにある」「お客様より従業員が上」というのが、うちの会社の成り立ちだと思っています。ですから、この信念は貫き通していきます。また、リーダーとしては、ブレない人であろうと心掛けています。
そしてもう一つ、会社で引き継いできたことを鵜吞みにするのではなく、自分が学んだことや経験したことで裏付けたものだけを、自分の言葉として説得力を持たせて従業員に語りたいと思っています。
―最後に、現在進行形でチャレンジされていることや御社の展望について教えてください。
私がスーツを着て、YouTubeチャンネルで変なことにチャレンジしているのは、とにかく会社の知名度や信用度を高めていきたい、会社の発信力を高めていきたいという思いからです。それはあくまで手段であり、私が自分の代でやっていきたいことは、ミッションに2つ書いています。
「日本のビジネスパーソンの「セルフイメージ」を向上させる。」
「真のお洒落とは「おもてなし」。その考え方の復権に尽くす。」
アメリカの会合に出席する友人が、日本人の装いを嘆いていました。他国の参加者はみんなスーツを着てカッコよくきめてくるのに、日本人はグダグダなのだと…。体にジャストフィットするオーダースーツは、自分のセルフイメージを上げてくれます。また、ビジネススーツは日本人が大切にする「おもてなし」の最上級アイテムであり、相手に感謝と敬意を示すことができます。
そんな本来のおしゃれなビジネスパーソンを生み出し、オーダースーツの着心地と楽しさで、日本のビジネスシーンを明るく元気にしていく。それが佐田家に生まれて4代目として生きる私の使命であると考えています。
―このようなお店で経営者向けのスタイリング講座ができるといいなと思いました。100年にわたる事業の転換ストーリーなど、興味深い話を聞かせていただき、ありがとうございました。
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株式会社オーダースーツSADA
佐田 展隆さん
1974年、東京都生まれ。一橋大学卒業後、東レ株式会社に入社。2003年父の要請により、29歳で株式会社佐田に移り、05年代表取締役に就任。07年金融機関の債権放棄と共に会社を再生ファンドに売却。11年当時のオーナーから立て直しを任されて佐田に復帰。社長としてオーダースーツの工場直販事業に注力。著書に『迷ったら茨の道を行け』(ダイヤモンド社)。
会社情報
- 社名
- 株式会社オーダースーツSADA
- 代表者
- 代表取締役社長 佐田 展隆さん
- 本社所在地
- 東京都千代田区岩本町2-12-5 早川トナカイビル5階
- 従業員数
- 210名
- 設立
- 1957年
- 事業内容
- 紳士・婦人オーダースーツの製造・卸・販売