INTERVIEW

「頑固な職人の集まり」から九州を代表する建設会社へ

興味のあるトピックが一つでもあれば、この記事がお役に立てるかもしれません。

  • 創業119年、「とび職の親方」が福岡の大型開発と共に発展
  • 「2代目五郎社長」を支えた、熱き職人たちの血判状
  • 非常識と言われた「職人の新卒採用」にチャレンジ
  • 建設と無縁だった自分が、家業に飛び込んだ理由
  • リーマンショックで売上が6割に。そこから始まる「脱おごり」
  • 「お客様とのご縁」と「職人の直接雇用」が力の源泉
  • 誰一人取り残さない…「社員全員にポジションを」という信念
  • 社員同士の「会話と明るさ」を大切にスクラムを組み続ける

有名・無名と問わず、日本中の「すんごい100年企業」を発掘していく「企業理念Times」の連載。生き残る理由を「企業理念」の観点から丁寧に紐解いていきます。今回は、福岡県にある明治39年(1906年)創業の中村工業株式会社。

建築業界で「スーパー5」と呼ばれる大手ゼネコン5社全てと取引がある国内でも稀有なサブコンメーカーとして、福岡をはじめ九州各地のランドマークとなる巨大な建築物を数々手掛けてきた同社。

5代目代表取締役・中村隆元さんに、創業から一貫としている同社の企業理念と成長の理由について聞きました。(聞き手:企業理念ラボ代表 古谷繁明)

創業119年、「とび職の親方」が福岡の大型開発と共に発展

創業119年、「とび職の親方」が福岡の大型開発と共に発展

ーー創業からの沿革を教えていただけますか?

今年で119年目、来年にメモリアルイヤーである120周年を迎える弊社は、とび職だった初代・中村重吉が、仲間の職人を集めて組織化したのが始まりです。とび職は高所に上がって作業をする現場の花形、初代が四国から北九州、福岡に移り、そこで事業を始めたと聞いています。1897年に八幡製鉄所ができて、これから九州で建設業の仕事が増えると言われていた時期ですね。

 

今年156周年を迎える岩崎建設株式会社様が、前身の岩崎組だった頃、日本軍の依頼を受けて旅順の砲台を移設した際、初代重吉も関わったと弊社に記録が残っています。

 

そして、福岡で開発の話が持ち上がったのが今から90年くらい前。阪急が竹中工務店様に岩田屋本館建築や天神再開発を依頼し、九州の施工者をどう手配するかとなった時に、岩崎組が弊社を紹介してくださいました。竹中工務店様と一緒に天神と博多駅周辺の開発に携わりながら会社として組織化したのが初代重吉から2代目五郎にかけてです。

 

ほぼ同時期に鹿島建設様も福岡の開発施工に乗り出してきて、取引が始まりました。大手ゼネコン各社との取引があるのは日本でも数社と言われ、その一社が弊社なのですが、きっかけが生まれたのがこのタイミングです。福岡の開発と共に成長したのが弊社だと言えます。

 

弊社は「職人集団であること」が強みの一つでもあるのですが、社長がとび職だったのは実は初代重吉のみ。初代重吉のご子息は早くに他界したため、左官業からの養子五郎が2代目となりました。この2代目五郎が私の祖父にあたります。

「2代目五郎社長」を支えた、熱き職人たちの血判状

「2代目五郎社長」を支えた、熱き職人たちの血判状

ーー左官業ということは、とび職同様現場の職人さんだったのでしょうか?

いえ、2代目五郎はもともとガラス細工などの芸術系の専門職で、東京で仕事をしていました。養子とはいえ、コテコテの職人の世界で跡を継ぐのは本意ではなかったのかもしれません。そして、それは初代重吉の急死後、若き2代目五郎を受け入れる側も同じ思いだったのか、「皆で2代目五郎社長を支えます」という内容の親方連中の血判状が弊社に残っています。

 

ですが、建設現場の職人ではなかった祖父五郎が2代目を継いだことで、中村工業に変化の兆しが見えてきます。

 

お客様、職人への優しさの文化は、ここから始まったのではないかと思います。2代目五郎から3代目勝重への承継の時も、親方連中が承継を受け入れる旨を押印付きで連名した書面が残っています。それだけ、当時はとび職の「親方文化」は強く、それぞれの親方が職人を抱える「班」単位で現場を回していたことが伝わってきます。

 

3代目勝重が継いだ当時、今から60年ほど前のことですが、天神地区の福銀本店、天神センタービル、天神ビルなどの巨大工事の話を竹中工務店様よりいただきました。まだ若き3代目勝重が率いる弊社のことが心配だったのでしょう。班単位で現場仕事をせずに、班同士協力し合って一緒に仕事をするよう、竹中工務店様が弊社と一緒に調整してくれました。こうして班制度に一石を投じたことが、弊社に変化をもたらすことになります。

 

ーー会社を下支えしてきた親方たちだけでなく、取引先企業も会社を支えてくれたのですね。

ありがたいことです。大工から始まった竹中工務店様には昔から「棟梁精神」という考え方があります。職人の衣食住などすべてを世話をし、成長を促すのが棟梁の務めだという考え方ですね。若社長が率いる中村工業を棟梁精神のもと育成しようとしてくださったのだと思います。この改善・改革によって、班制度では取り組めない大きな仕事を引き受けることが可能になり、今に繋がる大きなプロジェクトにも関われるようになりました。

非常識と言われた「職人の新卒採用」にチャレンジ

そしてもう一つ、3代目勝重で大きな変化がありました。高卒者の新卒採用を始めたのです。これも当時非常に画期的な取り組みとされていました。

 

というのも、職人文化がまだ色濃く残る当時、高校を卒業した人材が職人になる文化がなかったからです。職人は中学校を卒業してなるものだったのです。ですが、実際にやってみると、高卒の新卒採用者たちが弊社を支える強力な力となってくれました。1期生が今年で63歳になります。

 

班制度の改革、新卒採用の開始と、職人の集団を大きな組織としてまとめ、弊社の礎を築いたのが3代目勝重の時代だったと思います。これも2代目五郎以降が職人出身ではなかったから可能だったことかもしれません。

 

加えて、私が尊敬しているのが、3代目勝重が長男にあたる三兄弟の結束の固さです。この業界は兄弟で仕事をすると分裂することの方が多いのに、3代目勝重のリーダーシップのもと兄弟間できちんと役割分担がなされました。この結束を見た周りの人たちからのお力添えもあって、とび土工以外の仕事も受注できるようになりました。

建設と無縁だった自分が、家業に飛び込んだ理由

そして、4代目隆輔の息子である私は、3代目勝重に息子もいるので中村工業に将来関わることはないだろうと思っていました。高校を卒業した後は西新商店街の質屋でアルバイトしていましたね。商店街の人たちは本当に心温かい人ばかりで、いろんなお店の人たちに可愛がってもらいました。「この商店街に深くかかわっていく人生もいいな」と考えていたくらいです。

 

ーー「古き良き商店街」の人気者だったのですね。

ありがたいことに(笑)。19歳か20歳の頃、九州大学の先生が創立した国家資格がとれる夜間の建設専門学校が箱崎にあるから行ったらどうか、と親戚から提案されました。2年間、昼間は質屋で働き、夜は専門学校で勉強する生活をして卒業し、22歳で鹿島建設様へ出向することになりました。

 

鹿島建設様には6年半お世話になり、本採用を受けないかという話までいただき、一次面接を受けた直後、3代目勝重が体調不良だから帰ってくるよう連絡が入りました。本採用のお話は辞退し、中村工業に帰社したのが2002年の夏のことです。

 

帰社後、3代目勝重から新部署立ち上げを託されたのですが、翌2003年1月に3代目勝重が他界。私の従弟にあたる3代目勝重の息子がまだ若かったので、3代目勝重の弟である私の父隆輔が中継ぎということで4代目に就任。私は2008年4月に取締役に就任し、ゼネコンでの経験から現場を知っているということで「生産部長」のポジションに就きました。今まではなかったポジションで、営業から施工管理まで全工程を担当することになったわけです。

リーマンショックで売上が6割に。そこから始まる「脱おごり」

リーマンショックで売上が6割に。そこから始まる「脱おごり」

ーー創業100周年を迎える直前ですね。

はい。そして、その年の2008年夏に起きたのがリーマンショックです。当初は「海の向こうの出来事」程度にしか考えていませんでしたが、年の後半には影響が出始め、2009年度のプロジェクトが軒並み中止となっていく…。翌2009年は売上が6割まで落ち、メインバンクのコンサルティングが入るまでなりました。メインバンクから生産ラインのトップの人と話をさせてほしいと言われ、私が窓口となりましたね。

 

さて、どうしようかと。3代目勝重から4代目隆輔は兄弟間の承継ということもあり、幹部の顔ぶれも変わらないままでした。幹部陣と話し合っても、危機を乗り越える知恵が一向に出てこない。そこで、自分と同世代の社員で再編チームを組織し、グループリーダーという新しい役職を作って立て直しをしました。

 

ーー社内を立て直すため、他にどのようなことをされましたか?

中村工業は、職人を直接社員として雇用する全国でも珍しい会社です。通常、親方が職人を雇用するので、皆、「将来は親方になりたい」と個人事業主として職人を続けます。対して、弊社に在籍していると「サラリーマン職人」になるので、将来「親方=社長」になれる可能性は非常に低くなります。

 

しかし、「サラリーマン職人」を育成し続けてきたのが弊社の強みであり特徴です。ですので、リーマンショックで売上が半減しても「絶対にリストラはしない。どうにかするから、一緒にやっていきたい。頑張りたい」と当時250名近くいた社員の前で話しました。

 

実は、中村工業に帰社した時、私自身は社内にある種の「おごり」を感じていました。

 

とび職や大工、鉄筋、左官の4職種には名義人制度というものがあります。ゼネコンから声がかかったらその仕事を受注するというしきたりなので、受注のための努力や競争がありません。建設業界に限らず商売とは、見積額や成果を常に他社と比較され続けるものです。相手のニーズに合わせて細やかに努力を重ねなければ受注に繋がりませんし、事業の成長も望めないでしょう。

 

このギャップが、入社当初の私には「おごり」と感じられたのだと思います。そして、それがリーマンショックに端を発した危機で顕在化したのかなと。

 

まずは私自身の意識を変えました。おごらないこと、謙虚であることを意識すると同時に、社員から率直に物を言ってもらえる関係性を築いていきました。そうして社内で会話が生まれ、雑談が自然にできる組織になることで、変なプライドを捨て、危機の乗り越えるために一枚岩になれたのだと思います。

 

その後、今から12年前に5代目をどうするかという話になった際、リーマンショック不況時の経験も評価されたのか、現場から上がってきた私が社長に就任することになりました。

「お客様とのご縁」と「職人の直接雇用」が力の源泉

ーー世界的不況をも乗り越え100年以上続いた一番の要因は何と考えていますか?

ひとえに、人のご縁に恵まれたからだと思います。お客様とのご縁に関しては、例えば竹中工務店様が弊社を育成しようと、重機を譲ったり経験者を派遣してくださったりして、収益が上がる仕組みを築いてくださりました。私自身、鹿島建設様で修行させていただけたからこそ、今があります。さらにいえば、弊社の作図技術は、倒産した会社のOBの方々をご紹介いただいたところからスタートしています。

 

そんなふうに、たくさんの取引先とのご縁に支えられて続いてきたのが弊社です。

 

ーー人とのこと、理念にある「絆」に繋がると思いますが、理念についても詳しく教えてください。

もともと3代目勝重が竹中工務店様に指導を仰いだ際に社是を作ったようですが、この社是に「人間尊重」という言葉があります。

 

 

この社是を、社員みんなの心に届くわかりやすいキーワードにしたいなと考えていました。そこで、創業110周年目、ちょうど私が社長に就任したタイミングで新たに理念を策定しました。

 

 

先代からの流れで、中村工業という会社のテーマは「人」であるという点は明確でした。他の業界でも外注という方法で雇用を身軽にする時代になりつつありましたが、ここだけは譲れない。

 

経営者として、現場のあらゆる場面で舵取りができることが必要だと常々感じています。社員がいるから舵取りができますし、帆で風をうけることもできる。もともと社長になるつもりのなかった人間ですが、自分の代で、どんなことがあっても崩れない会社の土台をしっかり作りたいと、110周年記念式典で理念に込めた思いを語りました。

 

「崩れない土台」とはどんな土台か。そう考えた時に「思いやり」や「絆」という言葉が浮かびました。中村工業の始まりである「とび職」は、他の職人たちが作業をする足場を作るのが大事な仕事。相手があっての仕事ですし、相手の命を預かる仕事でもあります。ですから仕事仲間への「思いやり」や「絆」は中村工業の背骨に当たると考えています。

 

スリム化や効率化が時代の流れですが、「人との関わり合い」という面ではアナログでありたい。雑談など一見ムダに見えるかもしれないですが、そういったやり取りや時間も「関わり愛」と捉えて大事にしています。

誰一人取り残さない…「社員全員にポジションを」という信念

ーーこの考え方は社員教育にも活かされているのでしょうか。

私は学生時代にラグビーをしていたのですが、体重が重い人、足が速い人、背が高い人…どの人にも必ず役割があるのがラグビーの特徴。会社運営でも、一人一人に必ず合う役割があると考えています。なので、ベテラン社員や上長には、新入社員や若手を頭ごなしに叱るのではなく、その社員にあったポジショニングを探すように伝えています。

 

入社当初何もできなかった社員が1年目、5年目と成長を重ねていき、10年目には会社に文句を言ってくるまでに実力をつけてくる。人の成長が会社の成長に繋がり、それを実感できることがとても嬉しいですし、社長冥利につきます。これは職人を直接雇用しているからこそ感じられる充足感だと思います。

 

弊社へは福岡より遠方から入社する社員も多いので、寮の完備など福利厚生を充実させることにも力を入れています。「棟梁精神」から学んだことを時代に合わせて弊社なりに形にしているつもりです。

 

ーー毎年作っているポロシャツに印字されているスローガンにも理念が反映されているそうですね。

はい、今年は以下の4つの言葉を入れました。

 

・AWARENESS(気づき)

・DIALOGUE(対話)

・EMPATHY(共感)

・ACTION(行動)

 

 

自分なりに「コミュニケーション」という言葉を分解してこの4つにまとめました。実は「コミュニケーション」という言葉をあえて使わないようにしているんです。なぜかと言うと、事故と隣り合わせの工事現場では至る所にルールや標語などが書かれた垂れ幕が下がっているので、ありきたりな言葉だとすぐに社員の中で形骸化してしまうからです。ありきたりではない、社員の心に残る言葉で表現したいと考えていました。

 

たくさんのことに気づけなければいいサービスをお客様に届けられないから、まずは「気づき(=Awareness)」が大事、その気づきについて仲間と対話し深めていき(=Dialogue)、共感(=Empathy)で終わらせずに必ず行動(=Action)に落とし込もう。

 

今年のスローガンは、来年の120周年に向けた一歩となるよう意識しました。

社員同士の「会話と明るさ」を大切にスクラムを組み続ける

ーー次は200年企業を目指すとのことですが、その想いをお聞かせください。

 

「200年」という数字も大事ですが、そのためには「継続」が何よりも大事だと考えています。1秒、1分、1時間、1日、1ヶ月、1年…おごることなく地道にコツコツ積み重ねることが、会社の存続に繋がると信じています。

 

この考え方も、ラグビーに影響を受けていますね。ラグビーは継続が評価されるスポーツ。ボールをゴールラインに運ぶには、多種多様なポジションがパスを繋ぐことが必要で、仲間をフォローをしながらフィールド上にいる全員が動きます。

 

ラグビーでいう「カバーリング」が企業存続にも必要だと感じています。トラブルに見舞われても、悲観的に捉えるのではなく、「どうカバーリングして立て直していくか」を考えられる組織でありたい。世間のためにもお客様のためにも中村工業が存続し続けることが最大の恩返しになると思い、「200年企業を目指そう」と言っています。

 

今後、リーマンショックの時のように壁にぶち当たることがあるかもしれません。どんなに高い壁が立ちはだかろうが、社員一丸となってスクラムを組む。そして明るさも忘れずに前進し続ければ、きっと200年を迎えられると信じています。そのためにも「派手さ」は追い求めず、目の前のことを誠実に積み重ね続ける組織でありたいです。

 

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中村工業株式会社 

中村 隆元さん

1975年生まれ。福岡県春日市出身。中村学園三陽高校、福岡建設専門学校卒業。1997年に中村工業株式会社入社後、2002年まで鹿島建設に出向。2015年に同社代表取締役に就任。

会社情報

社名
中村工業株式会社
代表者
代表取締役 中村 隆元さん
本社所在地
福岡県福岡市中央区舞鶴3丁目2-6
従業員数
249名(2024年4月時点)
創業
1906年
事業内容
建設・設備工事・建築設計
会社サイト
https://nakamura-k.com/
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