INTERVIEW

売上99%減、17年連続赤字の挑戦から
無添加石けんのビジョナリーブランドへ

興味のあるトピックが一つでもあれば、この記事がお役に立てるかもしれません。

  • 1910年に祖父が始めた雑貨店が石炭景気で石けん卸売業へ
  • 大口取引先からの相談で生まれた「無添加石けん」
  • 先代社長の方針転換で、月商は8000万円から78万円へ
  • 17年連続赤字でも「無添加石けん」一本の経営を曲げなかった父
  • 「企業理念」があったから、30歳で社長になっても迷わなかった
  • 先代が築き上げた企業文化に、3代目社長の「風通しのよさ」を
  • 無添加石けんの技術を応用し、「世界初の石けん系消火剤」を開発

有名・無名問わず、日本中の「すんごい100年企業」を発掘していく「企業理念Times」の連載。生き残る理由を「企業理念」の観点から丁寧に紐解いていきます。今回は明治43年(1910年)創業のシャボン玉石けん。

 

高度経済成長期に合成洗剤の販売で順調に成長を続けていたにも関わらず、突如として「無添加石けん」一本の経営に舵を切った先代社長。そこから50年にわたり信念を曲げない経営を続けてきた3代目社長の森田隼人さんに、「シャボン玉石けん」の歴史と挑戦を聞きました(聞き手:企業理念ラボ代表:古谷繁明)

⬛︎1910年に祖父が始めた雑貨店が石炭景気でせっけん卸売業へ

⬛︎1910年に祖父が始めた雑貨店が石炭景気でせっけん卸売業へ

ーー創業から今に至るまでの御社の簡単な沿革を教えてください。

 

創業は1910年(明治43年)。私の祖父にあたる森田範次郎が北九州・若松の地で「森田範次郎商店」を開業しました。「商店」という名前の通り、商品全般を扱う雑貨商としてスタートしました。ゴム草履、鍋、やかん、紙類、石けんなどいろんなものを取り扱っていました。

 

当時の若松は石炭の積み出しで非常に賑わっていて、人もお金もたくさん流入し、日用品がよく売れたそうです。その中で特に消耗のスピードが速く、石炭で汚れたものを洗うのに重宝した「石けん」の売上が好調でした。それもあり、次第に販売代理店や特約店という形で商売を「石けん」に特化していったという歴史があります。

 

しかし、やがて石炭景気もかげりを見せ始め、日本が太平洋戦争に突入すると、それまでのように順調に商売を続けていくことが難しくなります。戦後、父・光德の代になると、商売の拠点は若松から、北九州の市街地・小倉に移っていきました。

 

ちょうど、日本が高度経済成長を迎え、1960年代に差し掛かると、アメリカから「合成洗剤」が入ってきました。日本国内でも洗濯機が各家庭に普及していったタイミングで、合成洗剤もそれと一緒に広まりました。父も洗濯機がどんどん売れていく様子を目にして「これからは合成洗剤の時代が来るんだ」と考え、取り扱う商品を「石けん」から「合成洗剤」へ切り替えました。

 

これが軌道に乗り、売上も右肩上がりで、社員も100名くらいまで増えます。まさに順風満帆。ところが、その頃から父は原因不明の湿疹に悩まされるようになります。背中、首、腰まわりなど身体の至るところにできて、皮膚科でもらった薬を塗ってみても一向によくならず、もう治らないと諦めていたそうです。

⬛︎大口取引先からの相談で生まれた「無添加せっけん」

⬛︎大口取引先からの相談で生まれた「無添加せっけん」

その頃、大口取引先だった国鉄(現JR)の門司鉄道管理局の担当の方から一つの相談が、父に持ちかけられます。

 

その相談とは、「合成洗剤で機関車の車体を洗っているが、サビが出やすくて困っている。無添加の粉石けんならサビが出にくいらしいので、おたくで作れないか?」というものでした。

 

当時は、無添加という言葉もないような時代で、石けんは無添加ではなく、製造しやすいように助剤を加えているものが一般的でした。技術的にはとても難しい要望でしたが、そこは得意先ですから父は「やります」と返事をしたそうです。父は、長崎県佐世保にあった関連会社の工場に技術者と共に泊まり込んで、無添加石けんの開発に打ち込みました。試行錯誤の末、ようやく当時の規格水準を上回る無添加石けんの製造に成功します。

 

この国鉄に納めるための「無添加石けん」が思わぬ展開を生みます。

 

というのも、父が試作品を自宅に持ち帰って洗濯や体洗いに使ってみたところ、1週間も経たないうちに長年悩まされていた湿疹がよくなったのです。ところが試作品がなくなって元の合成洗剤に戻ると、すぐに湿疹がぶり返してしまった。それで父は「ひょっとして10年以上自分の肌を苦しめてきたのは、自社の商品だったのではないか……」と思い当たったわけです。

 

父が興味を持って調べていくと、やはり合成洗剤は身体だけでなく環境にも悪影響があること、一方石けんには長い歴史があり身体にも自然にもやさしいことがわかってきました。

 

ただ、会社は当時、合成洗剤を販売してとても儲かっていました。でも父には自身の体験がありますから「石けんは売れる」と確信した。そこで、北九州の市街地で粉石けんを小さな袋に詰めたサンプルにアンケート用紙をつけて配り始めることにします。今でいう「サンプリング」。結果、「タオルがふんわり仕上がりました」「赤ちゃんのおむつかぶれがよくなりました」といった嬉しいお便りが届き、父はいよいよ「いけるぞ」と確信を深めていきました。

⬛︎先代社長の方針転換で、月商は8000万円から78万円へ

⬛︎先代社長の方針転換で、月商は8000万円から78万円へ

父の指揮のもと、商品見本と商品企画書を作り、営業マンたちが問屋さん、スーパー、薬局・薬店を回っては「無添加の身体にやさしい粉石けん」を売り込みました。ところが、バイヤーの方たちからは「今さら石けん?」という冷ややかな反応が返ってきます。というのも、合成洗剤は当時「新しい科学技術」によって生まれた石けんより「先進的なもの」と認知されていたからです。

 

「時代遅れの石けんなんて売れないから要らない」。営業マンから届くそうした反応に触れて父も「仕方がないな」と、会社では引き続き合成洗剤を売り、自宅では石けんを使っていました。

 

そんな中、父が40代前半で体調を崩します。病院に駆け込むと、血圧が200を超えていて「あんた、死ぬぞ」と医師から即入院を言い渡された。病室のベッドに横たわりながら父は「一度きりの人生なんだから、本当に自分が正しいと思えること、自分がやりたいと思えることをやろう」と決心したそうです。

 

退院後、そのまま会社に向かった父は従業員を集め「うちは合成洗剤を売るのはいっさいやめて、無添加石けん*一本でやるんだ」と宣言します。当然、従業員は大反対。1974年当時、当社の売上は月商8000万円ほどありましたが、無添加石けんに切り替えた翌月はそれが78万円まで下がりました。1%以下です。それを見た従業員からは「ほら、これじゃ商売が回らないから、元の合成洗剤に戻しましょう」という声が相次ぎました。でも、父親は「売上はゼロじゃない。まだ無添加石けんが知られていないだけだ」と頑固に方針を曲げませんでした。

 

普通の経営者なら、合成洗剤と無添加石けんを併売しながら、徐々にシフトするというやり方をとると思いますが、父は「体に悪いとわかっているものを売るわけにはいかん」と無添加石けん一本の経営を貫きました。

 

*合成の界面活性剤を用いたものを「合成洗剤」、天然の界面活性剤を用いたものを「石けん」と定義。

⬛︎17年連続赤字でも「無添加せっけん」一本の経営を曲げなかった父

⬛︎17年連続赤字でも「無添加せっけん」一本の経営を曲げなかった父

当時父は「3年か5年、辛抱すれば黒字になる」と思っていたそうですが、結局17年間も赤字が続きました。100人いた社員は「社長は頭がおかしくなったぞ」と次々に辞めていき、一番少ない時には5人に。それも採っては辞め、辞めては採っての繰り返しで、合成洗剤を売っていた時代の社員は一人も残りませんでした。

 

無添加石けん一本に切り替えてから4年後、当社は初めて大卒採用を実施しました。優秀な人財を集め「無添加石けんの素晴らしさを世の中に広めていこう」と呼びかけたのですね。その一期生の中には今でも役員として活躍している人財がいます。そういうふうに理念に共感してくれる人の採用に力を入れるようになったのも、無添加けんの販売を始めてからです。

 

こうして売上は徐々に上がっていったものの、赤字が続き広告を打つ資金がないので、父は社長業のかたわら本の執筆を始め、原稿を出版社に持ち込みました。それが『自然流「せっけん」読本』(サンマーク出版)という本なのですが、1991年に出版され全国の書店に並ぶと異例のベストセラーとなり、本を読んだ方々から注文が入り、翌年には18年目にしてようやく黒字に転じました。

 

ちょうど時代背景としても、湾岸戦争で油まみれの水鳥の写真が出たりして環境意識が高まっていたことも相まって、現在に至るまでは黒字を維持しています。

 

2000年頃には大手企業による食品偽装問題が取り沙汰され、生活者の皆さんの間で「大手企業の商品であっても安心できない」という意識が芽生えたことも、当社にはプラスに働いたと思います。またアトピーやアレルギーで悩む方が増えたことも無添加石けんが支持されるようになった要因の一つです。

 

最近のSDGsの流れも追い風としながら、今に至るまで、長い時間をかけてゆっくりと「石けんの輪」を広げているという感じです。おかげさまで、「森田範次郎商店」の創業から数えて、今年(2024年)で114年目を迎えました。

⬛︎「企業理念」があったから、30歳で社長になっても迷わなかった

ーー100年続いた一番の要因は何だと思いますか?

 

途中で業種が変わっているので何とも言えませんが、「無添加石けん」に切り替えてから今年(2024年)で50年目を迎えます。「なぜ、50年続いたのか?」という問いに対しては、やはりどんなに困難なことがあっても「健康な体ときれいな水を守る」という企業理念を貫いてきたからだと思います。この理念を体現する企業活動を、父の代から50年にわたりとにかく地道に続けてきた。その一点に尽きるのではないでしょうか。

 

私自身も、会社の歴史としては3代目社長ですが、「シャボン玉石けんの2代目」という意識の方が強いです。

 

ーー本当にシンプルで素晴らしい企業理念だと思います。この理念はいつ策定されたのですか?

 

「健康な体ときれいな水を守る。」という企業理念は、間違いなく父が作ったものですが、いつできたかは正直わかりません。当社はそこそこ歴史のある会社には珍しく、社員の平均年齢は34歳と若い。無添加石けん一本に切り替えた時に社員がみんな辞めてしまったので、企業理念を策定した経緯を知っている人間が一人も残っていないのです。

 

策定の経緯はわからないものの、この理念は会社の中で脈々と受け継がれてきましたし、今いる社員はみんなこの理念に共感して入社しているので、とても深く根付いていると思います。私自身、この理念が「本当にあってよかった」と感じていますし。というのも、私が30歳の時に代替わりし、その半年後には父が亡くなり、新社長としてどうしていいかわからなかったところも多々ありましたから。

 

でも、この理念がビシッと組織の隅々にまで浸透していて、「あっちに進むんだ!」という意識の共有ができていたので、迷うことはありませんでした。船の進むべき方向は決まっているから、船長が突然若い人に変わってもみんなついてきてくれたんです。

 

ーー理念を浸透させるための施策はありますか?

 

もちろん、理念を唱和したりもしますが、やっぱり一番はこの理念に沿った本業である無添加石けんの製造・販売をずっと地道に続けること。また、海岸の清掃活動、学校への出前授業、子ども食堂の支援、工場見学の受け入れなど、北九州市とも連携して理念に沿った様々な取り組みを行っています。

⬛︎先代の父が築き上げた企業文化に、3代目社長の「風通しのよさ」を

ーー企業理念の他にも、御社には優れた「ビジョン」や「虹色行動指針」がありますね。それぞれについて策定の背景などを教えていただけますか?

まず「ビジョン」はここ10年ほどの間に私自身が策定しました。1項目の技術に関して、当社は研究開発にも力を入れていて、石けんをベースとした消火剤なども開発しています。規模の大小では世界一を目指すのは難しいかもしれないですが、技術面では世界一を目指せると考えています。

 

そして2項目は、合成洗剤と石けんの違いがまだまだ社会の中では浸透していないので、その点も、父の代から引き続き注力したいと改めて盛り込んでいます。最後の3項目は、1・2項目の実現と共に築き上げていきたいと考えています。

「虹色行動指針」は当時の役職者や若手リーダーにも一緒に考えてもらいながら、策定しました。行動指針はまだ完成して2年ほどなので、ここから浸透させていくフェーズです。今、若手起案でさまざまなアイデアを実行に移しています。

 

7つの行動指針の中の、5項目「常に成長や進化を求めて、失敗を恐れず挑戦します」は、父の代からかなり実践されていたと思いますが、私の代になって特に実践しているのは「風通しのよさ」です。4項目や6項目ですね。入社1、2年目の若手が普通に社長室に入ってきて提案することもよくありますし、その提案が理念と合っていればGOサインを出します。

⬛︎無添加せっけんの技術を応用し、「世界初の消火剤」を開発

ーーこれから挑戦したいことがあれば、教えてください。

 

「企業理念をしっかりと体現した事業をする」という点は、今後も貫いていきたいですね。その一環として、5年ほど前から本格的に「香害」「化学物質過敏症」に関する啓発活動を行っています。テレビCMなどで洗剤や柔軟剤の「香り」をアピールするものばかりが流れている現状に対して、疑問を投げかける内容です。

 

※香害:香り付き製品による健康被害のこと。目やのどの痛み、頭痛、めまい、吐き気など様々な症状を誘発します。

※化学物質過敏症:さまざまな種類の微量化学物質に反応して体調不良を引き起こし、重症になると学校や職場に行けないなど日常生活にも支障をきたす環境病。

広告を出す前は社内からも「こんな広告を出して大丈夫か?」と心配する声が上がったものの、意見広告として全国紙に出稿。かなり挑戦的な試みだったとは思いますが、「健康な体ときれいな水を守る。」という企業理念を体現するためにはやるべきことですし、業界の中でこれを自信を持って発信できる企業は当社以外にないだろうという自負もありました。

 

父親の座右の銘に「好信楽(こうしんらく)」という言葉があります。これも社是のように浸透しているのですが、「何事もそれが好きで、信じて、楽しめるからこそ長続きさせることができる」という意味です。どんなチャレンジもこの姿勢を忘れずに取り組んでいきたいと思っています。

先ほど少し触れましたが、「消火剤」の領域にもさらに踏み込んでいきたいと思っています。あまり知られていないかもしれませんが、実は私たちは2001年から石けん系消火剤の開発に取り組んでいます。

 

日本には水が豊富にありますが、海外では水が希少な地域も多いので、少ない水でいかに早く消火するかという課題が常にあります。一般的に、消火剤は合成界面活性剤を使用して製造するのですが、天然の界面活性剤である石けんを使用するというのが、当社の挑戦です。

 

1995年の阪神淡路大震災では火災で多くの方が命を落としました。そこで日本国内でも消火剤の必要性が議論され始めます。私たちが本社を構えている北九州でも、北九州市消防局が1999年にアメリカの消火剤を輸入して試験をしていたのですが、消火は短時間でできたものの、消火剤の泡が残留して環境への影響が懸念されました。そこで、地元企業である私たちに「環境に負荷をかけない消火剤を作れないか?」と相談が持ちかけられたのです。

 

私自身もプロジェクトに参画し、産官学で大学も巻き込みながら開発がスタート。7年かけて800種類の試作品を作り、やっと世界初となる商品を作り上げました。森林火災にも技術を応用し、実際にインドネシアの山火事でも散布されましたし、今後もJICA(国際協力機構)の支援を得ながら大規模な消火実験などを実施予定です。

 

ーーすべての取り組みが「健康な体ときれいな水を守る。」という企業理念にピタリと沿っていますね。今で言うパーパス的な、とてもわかりやすい理念があるということが揺るぎない強みなんだなと感じました。

「企業理念ラボ」には、

企業理念の言語化や浸透策の
事例が豊富にございます。
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シャボン玉石けん株式会社 

森田 隼人さん

1976年、福岡県生まれ。2000年3月専修大学経営学部経営学科卒。同年4月にシャボン玉石けんへ入社。関東エリアの卸店、百貨店、スーパー、ドラッグストアチェーンなどへの営業に携わる。その後、取締役副社長などを経て、2007年より現職。無添加石けんを通じた現在の環境問題を広く社会に伝えるため、講演活動も積極的に行っている。

会社情報

社名
シャボン玉石けん株式会社
代表者
代表取締役 森田 隼人さん
本社所在地
福岡県北九州市若松区南二島2-23-1
従業員数
158人(2024年時点 パート・アルバイト含む)
創業
1910年
事業内容
化粧石鹸やシャンプー・リンス・ハミガキなどの化粧品、洗濯用や台所用・重曹・クエン酸・酸素系漂白剤などの日用品、消火剤の製造販売
会社サイト
https://www.shabon.com/
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